この人の本は、ちょと僕ら常人には考えもつかないようなことを、僕ら常人にもわかるように噛み砕いて書いてもらっていて、読んでいるうちは「なるほど。なるほど」とスラスラ読み進めるのですが、読み終わって、さあ、いざその内容を反芻して見ようとおもうと「ん? なんだっけ」ということになることがしばしば。
結局よくわかっていないのですね。
おそらくは、書いているご本人も、「どうせ、そんなことだろう」と思っていらっしゃるのでしょう。
わかってもらおうなんて、はなから思ってはいないかもしれない。
買って貰えばそれで結構、あとは、理解できるかできないかはそっちの問題。
こっちは、これ以上簡単にはできないんだから、あとは知ったこっちゃない。
この人の本を読むたび、毎回そう言われている気がします。
でも、こちらも、この天才老人の頭の中身を理解したいという色気はあるから、わからなくても、新刊が出れば、つい手が出てしまう。
それが「遺言」ともなればなおさらです。
養老翁には、「これだけ説明してもまだわからないの?」と怒られそうですが、人間という種が地球上の進化上でパンデミックを起こし、他の生物から一気に抜け出したのは、どうやら人間が、発達した脳の意識で「同じ」という概念を発明したから。
今回も、著者はこれがいいたいようなのです。
どういうことか。
ちなみに、自然界には、同じものはない。
これが大前提です。
例えば、りんごが2つあったとします。
人間には、「同じ」を意識で認識できますから、これは、「りんご」という同じもの。
でも、その他の動物には、あくまで、これは違うもの。
同じりんごでも、形や大きさは微妙に違うから、厳密に言えばそうなります。
だから、動物にとっては、りんごはあくまで「これ」と「それ」
ところが、人間の意識はこれがお気に召さない。
だから、脳な中で「りんご」という言葉を作って、似たようなものだからいいでしょうと「同じ」ものにしてしまいます。
でも動物に言わせれば、そんなのそっちの勝手でしょという話。
では、りんご2つではなく、りんごの隣にみかんを置くとどうなるか。
当然動物には、これは明らかに違うもの。
それはそうなんですが、人間はここでハタと考えた。
ここで「果物」という言葉を発明して、これを同じものにしてしまうとなにかと便利。
ではその隣に、チョコレートを置いたらどうなるか。
同じように、ここに「食品」という言葉を発明して、これも「同じ」にしてしまう。
本当はそれぞれ違うものを、便利な「脳の意識」を駆使して、「同じもの」としてくくってしまう。
そこに並んでいる2つのりんごの違いを理解するのは五感を使った「感覚所与」。
この感覚所与が発達しているのは人間よりも動物です。
だから動物は、「同じ」よりも「違う」に敏感。
「同じ」という理解は、感覚から得た情報を一度脳の中で咀嚼しなければならない。
だから、人間の脳は、他の動物に比べて発達した。
厳密に言えば違うものを、「同じ」として扱う処理を獲得したからこそ、人類は他の動物とは違う進化ができた。養老翁は、そうおっしゃいます。
とにかく、人間の意識は、「同じ」が好き。
これがあることで生まれたのが、物々交換。
同じくらいの価値のあるものを交換することで、人間が獲得した原初の経済コミュニケーションです。
動物は物々交換はできませんね。
森のリスがとってきた木の実を、鶏が卵と交換しているところなんて見たことがない。
そして、この等価交換が、やがてマネーを産み、そして都市を作っていくということになります。
都市までできてしまえば、もう世の中は人間の天下。
どんなに寒い国でも、暑い国でも、都市の人の住む空間は、みんな同じ温度の快適な空間に管理されます。
だから、都市は自然を嫌います。意識は自然を嫌います。
やがて、都市からは自然は追い出されて、それはそのまま環境問題となります。
意識は、だんだんと大人になるにつれ、都市社会に暮らすのに適応するように作られていくもの。
だから、生まれたての子供は、まだ自然です。
親だって、それはコントロールできない。
その自然の子供を、その正反対の都市に適応させるように「同じ」にしようとするから無理がある。
これがそのまま教育問題になります。
ん?
そんな、話ではなかったでしたっけ。
え?
知ったこっちゃない?
養老翁も、こんな読者がいるうちは、まだ死ねませんね。
失礼いたしました。
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