サイコパス。
この言葉から真っ先に連想されるイメージは、僕の場合はやはり、あまたの映画に登場するシリアル・キラーたち。
殺人を犯しても、顔色ひとつ変えず、時には快感の笑みさえ浮かべる極悪犯罪人。
「羊たちの沈黙」のレクター博士然り。
「サイコ」のベイツ・モーテルのオーナー、ノーマン・ベイツ然り。
「悪魔のいけにえ」でチェーンソウを振り回すレザーフェイス然り。
映画を魅力的にするには、欠かすことのできないキャラクターがサイコパス。
恥ずかしながら、その程度の認識でした。
しかし、そのサイコパスは、映画のスクリーンの向こう側だけにいるわけではない。
サイコパスは、実は何食わぬ顔をして、僕らの社会に平然と暮らしている。
そう言われて、自分の過去の人生で関わってきた色々な人たちを思い出してみると、確かに、本書の指摘に思い当たる人たちが、少なからずいました。
いや、もしかしたら、それは他人事ではない。
認識していないだけで、実は僕自身が、他人から見て、サイコパスかもしれない。
サイコパスは、およそ百人に一人の確率で存在する。
著者はそういいます。
つまり日本だけで考えても、サイコパスは、全国におよそ120万人いるということになります。
それならば、普通に暮らしていれば、サイコパスに関わらない方が不思議というもの。
サイコパスは、実は僕らにとって、非常に身近な問題であるということになります。
サイコパスというキャラには、勝ち組と負け組があるとのこと。
負け組とは、つまり、そのキャラクターゆえに、犯罪に手を染め逮捕されてしまうもの。
社会から隔離されてしまえば、さすがの彼らも刃をぬかれた獣同様です。
それで一巻の終わり。
しかし、サイコパスの中には、その特異なキャラを最大限に活かしきり、人生の成功者となるものもいます。
これが勝ち組です。
革命家、弁護士、医師、ジャーナリスト、聖職者に多いそうです。
サイコパスは、確かに問題の多いキャラクターではあります。
しかし、そのキャラが人間社会に不必要なものなら、それはとっくに淘汰されているはずだということ。
反対に、このキャラが生きていくのに有効なキャラであれば、その割合はもっと増えているはず。
その振り子のどちらにも振り切らず、この百分の一というバランスを保ちながら、サイコパスは、人類の歴史に、存在してきました。
つまり、人類の進化の上で、一定量のサイコパスは、むしろ必要であったということ。
そう考えると、歴史上の人物でおそらくサイコパスであろうと推定される織田信長、毛沢東、ジョンFケネディ、ピョートル大帝、マザー・テレサ(意外でしたが)たちへの見る目も変わってこようというもの。
常人には到底考えられない決断を平然とやってのける勝ち組サスコパスたち。
人類の歴史の転換点には、少なからず、このサイコパスたちの活躍があった。
そう考えると、この一見厄介な存在に思えるサイコパスたちを、ただいたずらに敬遠するよりは、それを理解した上で、上手に付き合っていく技を磨いた方が、実は賢明なのかもしれない。
そんな気がいたします。
時には、冷徹な判断もしなければならない会社の経営者たちにも、サイコパスが意外に多いといいます。
あなたの会社が大きくなれないのは、もしかして、社長がサイコパスではなく、ふつうに「いい人」すぎるのかも。
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