中国の思想家で、日本で最も有名なのはやはり孔子。
道徳の教科書でもおなじみで、「人」とはいかにあるべきか。
これを説いた人。
学校でも習いました。
彼の教えは、やがて「論語」となり、儒教に発展しました。
封建社会の崩壊を目の当たりにして、その中で普遍的にな「人倫」のあるべき姿を模索した思想家。
それが孔子の立ち位置でした。
それに対して、今回読んだのが「荘子」。
荘子は、常に老子とカップリングされて、よく「老荘思想」と呼ばれています。
孔子の思想の頂点に「人」が来るとすれば、老荘思想の頂点には常に「自然」があります。
無為自然。
これは、老荘思想の最も基本となる概念。
作為を持たず、自然のありのままでいること。
老境にさしかかってきた今の自分には、やはりこちらの方がしっくりきますね。
本書には、道に迷った孔子が、教えを請いにくる場面が多々登場。
(孔子よりも、荘子の方が後の時代の方のようなのですが・・)
その際に、孟子は概ね、孔子に対して、「もっと肩の力をぬきなさい」というようなことを言うわけです。(孟子ではなく老子だったかも)
社会の中で、人が真っ当に生きていくためにはどうすればよいか。
この「人倫」の道を、真摯に純粋に追求する孔子。
人の道は、ご存知の通り、仁・義・忠・智・信。
でもこれは、先祖、親、兄、組織など、自分の先達たちや、所属する組織などを敬えという思想。
よくよく考えれば、世の中のヒエラルキーは否定していません。
簡単に言ってしまえば、多くの人たちが集まり暮らしていく「都市」向けのルールブックと言えそうです。
翻って、この荘子の思想は、人よりも、自然と向き合えという「農村」向けテキスト。
荘子曰く、
「どれほど素晴らしい農具も耕すのに最適な時期に耕すことには及ばない。」
「道は近くにかならずある。どこか遠くを探し回る必要はない。」
「死生命あり。富貴天にあり。君子は敬して失ふことなく、人と恭しくして礼あらば、四海のうち、みな兄弟なりと」
「人の患いは、偉くもないのに自分から好んで人の師となろうとしたがることである。」
「国民の楽しみを楽しみとし、国民の心配を心配とするのが、王としての道である」
「足ることを知りて、分に安んじる。」
「最高の徳を備えた昔の人間は、仁を仮の通路として利用し、義を仮の宿として一夜を過ごすだけで、やがては逍遥の丘に遊び、簡素な生活を支える田畑の作物を食べる。自分一人の簡素な生活をすれば、心を労することもない。」
考えてみれば、人間とて自然の一部です。
本来であれば、その範囲内で、人の役割を考えるのは問題ないでしょうが、人間が自然よりも上の立場でものを考えると、いろいろな問題も出てきそう。
素朴な感想で言えば、孔子の思想は真面目で、積極的で、上昇志向で、建設的。
それに対し、荘子の思想は、謙虚で、受け身で、欲がなく、保守的だが、どこか達観している思想。
ではどちらが、正しい姿勢なのか。
どうも、その論を戦わせること自体を、荘子は望まない節があります。
まあ、それはそれ。これはこれ。
では、自分自身はどうか。
今現在、都会を脱出して、田舎暮らしを模索する、百姓志望者の自分にとっては、概ね荘子思想の方が、いちいちしっくりきます。
ただ一読してみて、どうも老子との区別がついていません。
となれば次は、やはり「老子」を読むか。
ソウシます。
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