老子は、中国春秋時代の哲学者といいますから、紀元前の方。
当時の中国は、文化においても、経済においても、世界のトップリーダーでした。
老子は、道教の始祖として、神格化されている人物。
若い頃は、この方よりも、孔子の著した「論語」の方が馴染みはありましが、先日読んだ荘子と合わせた「老荘思想」に触れてみると、年老いた我が身には、俄然、こちらの方がしっくりきます。
比べてみると、やはり孔子の起こした儒教は、いってみれば、都市の論理という気がします。
都市というのは、人間の理性で作り出した空間。
人の理屈で成り立っている場所です。
従って、如何にして、理性を律し、コントロールしていきながら、人間社会の秩序を守り、理想的なものにしていくかといういくのかというのが中心になる学問。
孔子様は、しっかり学問を修めて、頑張って、立身出世しなさいよとおっしゃるわけです。
そりゃあ、日本の武家社会には、受け入れられるわけです。
いってみれば、儒教は、これから社会に出て活躍していく若者たちの学問といっていい。
確かに、学校の教科書向きです。
それに対して、老子のいうことは、まったくその対局。
無為自然。
自然のあるがまま、運命のあるがままを素直に受け入れなさいとおっしゃる。
要するに、そんなに気張りなさんなという教え。
欲の皮を突っ張っても、決して幸福にはなれませんよという話です。
要するに、儒教とは対局の学問。
聖人というものは、足るを知る。
どれだけの財を成しても、お墓までは持っていけないわけです。
地位も名誉も、自然の営みの中では、取るに足らないもの。
そんなものに振り回されず、必要以上のものは、持たない暮らしをよしとせよという話です。
60歳を超え、これから老いと向き合う身としては、これはやはり共感させられます。
どう逆立ちしても、物質的に恵まれた老後は、送れるような贅沢な身ではありません。
ならば、物質的なものには振り回されず、せめてメンタルの面をしっかりと現実に揃えて、心くらいは豊かでいたいもの。
いつまでも、座りごごちのいい椅子にあぐらかくことなく、都会は、その椅子ごと若者たちに任せて、老人たちは、自然へ帰ろうと老子は言ってますね。
ここ数年間、野菜づくりをしながらひとつ学習したこと。
人間が、ああだこうだ、いじりまくった野菜は、そのまま放置すると最後は腐ります。
けれど、自然のままで手を加えなかった野菜たちは、腐らずに、自然の中で最後は枯れていきます。
希望としては、爺いは爺いらしく、上手に枯れていきたいもの。
でもまだ今はちょっと無理かな。
我が煩悩は残念ながら、健在だなあ。
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