順不同で「ゴジラシリーズ」を鑑賞しています。
ここで、そもそもの原点。
昭和29年に公開された、シリーズの記念すべき第1作目「ゴジラ」を見直してみることにしました。
僕がゴジラを映画で見たのは、そのほとんどが、子供の頃よくやっていた「東宝チャンピオン祭り」での短縮版リバイバル。
「モスラ対ゴジラ」「キングコング対ゴジラ」「怪獣大戦争」「三大怪獣 地球最大の決戦」
この辺りはすべて、それで鑑賞。
「ゴジラ」と「ゴジラの逆襲」の初期二本は、モノクロ映画。チャンピオン祭りでは、上映されなかったので、見たのは、ちょっと後になってからでした。おそらくテレビでしたね。
記憶では東宝チャンピオンまつりは、当然のごとく、子供の観客が多く、大人は保護者としての付き添いがほとんど。
実は父親はけっこう映画好きでしたので、僕はけっこう連れて行ってもらえましたが、この「ゴジラ」は、公開当時は、大人が普通に一人で観に行ったと言っていました。
ゴジラは、もともと子供向けの映画ではなかった。
今はこちらも十分に大人なので、今回はその目線で見てみることにしました。
まずは、ゴジラの着想のきっかけとなったのが、当時社会問題になっていたビキニ環礁の核実験。
このときの水爆の放射能が原因で、ゴジラが誕生したという設定。
この核と放射能とゴジラという関係性は、その後のゴジラ映画にも引き継がれてはいますが、確かにその扱い方は、一作目のゴジラが最も濃厚です。
当時社会問題にもなっていた「第五福竜丸」事件は、その設定にもしっかりと描きこまれています。
そして、この第一作には、他のゴジラ作品には、ほとんど見られない、恋愛模様が描かれています。
しかも、主人公・宝田明とヒロイン河内桃子、そして、この映画で一世一代の演技を見せた科学者・芹澤を演じた平田昭彦なよる三角関係。
そして、この三角関係が、ラストの感動への大きな伏線になっていきますから、これは重要なポイント。
監督の本多猪四郎は、これはきちんと描きたかったはず。
というか、もともとこの監督は、そのあたりもきちんと描ける監督なんですね。
ちなみに、前回見た、「怪獣総進撃」も監督は同じ本多猪四郎です。
でも、あの映画には、本作のような人間ドラマは描かれていませんでした。
もちろん恋愛模様などは皆無。
東宝は、映画の観客が、次第に子供に移行してきた流れで、そのあたりを封印したのか。
あるいは、東宝からの指示で、子供向け娯楽映画に徹したのか。
本多監督は、十分に作家性を持つ力量のある監督でしたが、あくまで会社から出された条件の中で映画を作るという職人監督に徹した人でしたので、黒澤監督のように、自分のやりたいことを前面に押し出すということはしませんでした。
故に、昭和ゴジラ後期の、子供向け路線演出が、彼の本意であったかどうかはわかりません。
けれども、オリジナルゴジラ路線をその後も踏襲して行ったら、ゴジラ人気が続いたかということもわかりません。
怪獣映画の中に、果たして、大人向けの人間ドラマは必要かという問題は確かにあります。
特撮怪獣映画のファンは、破壊し対決する怪獣が見たい。
それ以外の要素は無用。つまらないドラマは、映画を白けさせるだけ。
そう言われればそうかもしれません。
でも、僕が「ウルトラマン」よりも、「ウルトラセブン」により感情移入できた理由は明白でした。
ウルトラマンにはなくて、ウルトラセブンにあったものは、まさに人間ドラマ。
もっと言ってしまえば、主人公モロボシ・ダンと、アンヌ隊員の恋愛模様でした。
最終回「史上最大の侵略」での、ダンとアンヌの別れのシーン。
あれは、完全に恋愛ドラマの演出でした。
怪獣目的で見ていた怪獣少年の僕には、ビックリドキドキ。
けっこう、ませたガキでしたから、強烈に印象に残っています。
閑話休題。
とにかく、ゴジラ第一作には、人間ドラマも、しっかりと描かれ、それが、ラストのカタルシスにまでつながっていたということです。
これは今回見直しても間違いないところ。
このあたりは、きちんと本多猪四郎の手腕と言えます。
怪獣映画のマエストロ本多猪四郎は、もともと大人の映画も撮れる監督だったということです。
そして、もう一人、この映画を大人の鑑賞に耐えうる作品にしている功労者は、やはりこの人。
古代生物学者・山根博士を演じた志村喬です。
東京を破壊するゴジラを撃退しようという対策本部に対して、貴重な研究材料を失いたくないと胸を炒める学者の苦悩を、さすがの演技力でリアルに表現。
彼がいうセリフ。
「200万年前ジュラ紀から白亜紀にかけて生息した海生爬虫類から、陸上獣類に進化する過程の中間生物であり、大戸島の伝承に倣ってこれをゴジラと呼称する」
出てきた途端に「ゴジラ」と叫ばれていた他のゴジラ作品とは違って、映画の中で、きちんとゴジラの呼称を説明するのは、僕が見た昭和のゴジラ映画の中では本作だけ。
(全作見ていないので、もしかしたら平成以降のゴジラにはあるかも)
些細ですが、こんな細かいところが、行き届いていたのが第一作でした。
主演は、まだまだ青二才の宝田明。
しかし、映画の美味しいところは、この志村喬と平田昭彦が持って行ってしまいましたね。
映画の最後のセリフも山根博士。
「人類が核実験を続ければ、きっと第ニ第三のゴジラが現れるだろう。」
しびれます。
志村喬は、「ゴジラ」と公開が同じ年の「七人の侍」にも出演していますから、この年の彼はたいしたものです。
改めて見直すと、このゴジラは、「大人の鑑賞に耐えうる」作品ではなくて、もともとは「大人が鑑賞するために」作られた映画 だったということ。
それから、もうひとつ。
それは、改めて見直してみると、ゴジラの登場シーンは、おもったより少なかったこと。
特撮シーンの割合は、その他の映画に比べて、それほど多くはない。
先日見た「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 怪獣総攻撃」は、出てくる怪獣も多いので、これでもかこれでもかというくらい特撮スペクタクルシーンのオンパレード。
観客が怪獣を見にくるのが「怪獣映画」なのですから、演出方向としては、それで間違いではないのでしょう。
ただし、本当に上手な作り手は、それはしないはず。
「ジョーズ」のスピルバーグ監督然り。
「エイリアン」のリドリー・スコット監督然り。
ゴジラのお手本になっている「原子怪獣現わる」然り。
(この映画は、ゴジラの前年製作)
「大アマゾンの半魚人」然り。
このあたりにも、ゴジラが、広く海外の大人の観客たちにも認められた秘密がありそうです。
ゴジラは、アメリカでは「King of Monster」
アメリカには、元祖特撮映画のヒーロー「キングコング」がいるにもかかわらず、この称号をいただけるのは、実に名誉なことです。
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