「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。」
このあまりに、有名な一説で始まる「方丈記」は、日本古典三大随筆のひとつ。
著者は、鴨長明。
さて、以前から思っていたことがひとつ。
話は音楽に飛びます。
ジョージ・ハリスンのソロ一作目となるアルバム “All Things Must Pass”
ご存知の方はご存知でしょう。
当時のレコードで、3枚分の大作アルバムです。
このアルバムタイトルにもなったこの楽曲は、直訳すれば「すべての物は、流れゆく」
おそらく、ジョージは、この曲を書くにあたって、どこかで、鴨長明の「方丈記」に触れて、インスパイアされたんだと、兼ねてから睨んでいました。
しかし、そのジョージも今は雲の上の人。
ちょっと聞いてみたかったですね。
生物学者・福岡伸一氏の著書にある、「生物は動的平衡を保っている分子の流れとして存在する」という、シェーンハイマーが提唱した概念を、もうすでに900年前の人が、しっかりとイメージしていたというところがまずすごい。
などと、偉そうにいっていますが、僕もこの本に関しては、作者名と、冒頭の一節を知っていたに過ぎませんが。
今回、山形の農業研修に向かうにあたって、新幹線の中で、iPadの中に仕込んである本の中から、パラリと開いた本が、たまたまこの本でした。
現代語訳も合わせて、64ページ足らずの、短い随筆。
あっという間に、読み終わりましたが、ドキドキしてしまいました。
というのも、この本を書いた当時の鴨長明の境遇と心情が、あまりに今の自分と重なるからです。
まず、ドンピシャリなのが年齢。
この本を書いていた当時の鴨長明の年齢が、今の僕と同じ60歳。
時は、平安時代から、鎌倉時代になろうとする頃。
鴨長明は、当時の都であった京の郊外に、小さな庵をたてて、隠遁生活を始めます。
方丈というのは、その質素な庵のこと。
世俗の生活のさまざまなストレスから解放されて、貧しいけれども「人間一人分」の質素な暮らしをしたいというその動機が、これまた今の自分と被ります。
家族を持たなかったという境遇もまた僕と同じ。
方丈記の前半は、鴨長明が、それまでの人生で見てきた、大きな災害について語られます。
ですから、エッセイというよりもルポルタージュ。
歴史書としての評価も高いところ。
そして、後半は、ガラリと変わって庵での隠遁生活が徒然に語られます。
「佛の人を教へ給ふおもむきは、ことにふれて執心なかれとなり。」
隠遁生活をするのであれば、身一つあればいいであろう。
物欲や世俗に執着するな。
僕のような、世俗の垢に塗れた凡人が、どこまで質素な暮らしを遅れるのかは怪しいところですが、少なくとも、定年退職以来、あちらこちらの農業研修を通じて、貧乏だけれど生きがいのある田舎暮らしを模索している今の心情とかなり付合します。
これから残りの人生を田舎で過ごすと決めて以来、マンションにある要らないもの、使わなくなったものはす少しずつ整理しています。
まだまだ、田舎暮らしを始めるまでに、処分しなければならない物はありますが、少なくとも街の暮らしの便利さは切り捨てる覚悟は、次第に出来てきました。
今、農業研修で、山形の飯豊村に来ていますが、二日間の研修を終えて、明日は、役場の方と一緒に周辺の空き家を見学に行きます。
まさに、終の住処となる庵を探すわけです。
これも念頭にあるのは、大き過ぎない古民家。
鴨長明の庵のように、人一人が寝れる程度の広さで十分とまではいいませんが、身の丈にあった手頃な物件があればしめたもの。
今のご時世ですから、彼のように完全ニートの隠遁生活は無理ですが、体を動かして、額に汗水流して働きながら、自分一人分の暮らしを農業を生業として、生きていければ上等。
定年後、3ヶ月間の就農活動を通じて、そのワクワク感は次第に膨らんできますが、この方丈記の最後では、それにも浮かれるなと自らを戒めております。
当時の60歳といえば、今でいえば、後期高齢者。
その年齢までには、まだまだ時間がありますが、決して浮かれることなく地道に、老後の暮らしの足場を固めていきたいところです。
方丈記の最後は、歌人でもあった鴨長明の一首。
「月かげは入る山の端もつらかりきたえぬひかりをみるよしもがな」
月は、山の向こうに消えていくけれど、出来ることならずっと見ていたいもんだ。
そこで、久しぶりに、百姓も一首。
「月影もやがて消えゆく西の空振り返れば今陽は上りくる」
おっと、柿本人麻呂の歌にこんなのがありましたっけ。
さて、もう直ぐ外も明るくなってくるので、散歩してきますか。
外は雪です。
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