4月10日に82歳でこの世を去った大林宣彦監督。
NHKで過去にオンエアされたこの番組が、録画されていたので見てみました。
早稲田大学の大隈講堂に、学生たちを集めて行われた、大林監督の渾身の講義。
静かな語り口の中にも、映画に対する熱い想いが溢れ出てくる3時間でした。
(番組はそれを編集した50分)
肺癌第4ステージで余命3ヶ月と宣告されてから、1年と4ヶ月経過した時点での登壇。
ゆっくりとした足取りで、ステージに向かうその姿だけで、すでに迫力が伝わってきます。
この講義で、監督が映画作りを目指す若者たちに伝えたかったこと。
そのひとつは、「映画とはフィロソフィ」。
つまり、作り手に、哲学がない映画は、映画としては二流だということ。
先達の作ったたくさんの名作の中から、そのフィロソフィを汲み取って、それを自分なりに消化し、そして自由に柔軟に表現する。
映画にはその媒体となりうる力を持った、素晴らしい芸術である。
監督はそう語ります。
そして、大林監督の、重要な映画づくりのテーマが実は「戦争体験」。
これは、正直意外でした。
少なくとも、僕の知る限り、彼の作品に、直接的に戦争を描いた作品はないと記憶しているからです。
あの有名な尾道三部作といわれる青春映画の金字塔。
大林監督の鮮烈なデビュー映画「HOUSE」
まるで、一部の批評家には、玩具箱をひっくり返したような映画と批評を受けた作品です。
あのポップなセンスは、僕は好きでした。
少なくとも、あの映画のどこを切っても戦争の匂いはしない。
しかし、そこには、大林監督の戦争体験が、色濃く反映されているのだと言います。
大林監督は、自分の作品を「シネマ・ゲルニカ」だと説明します。
「ゲルニカ」は、あの有名なピカソの絵画。
あそこに描かれたのは、見るも無残に破壊されたピカソの生まれ故郷の街です。
その悲惨な状況を克明に描く描写力を当然ピカソは持っていました。
しかし、彼はその情景を写生することはしないで、あの極端にデフォルメされ、歪んだ構図の作品を描き上げます。
なぜか。
あれをそのまま描いてしまったら、その絵はジャーナリズムになってしまう。
ジャーナリズムというものはやがて風化する。
ピカソはこれを嫌ったというわけです。
そして、わざと子供のような絵を描いて、あの絵にゲルニカというタイトルをつけた。
これにより、ゲルニカは、未来永劫に戦争の悲惨さを、子供にも理解できるように伝える命を持った。
これが、表現者にしかできないフィロソフィを伝える手法だというわけです。
これで、大林監督の映画が、直接的な表現ではない手法で、戦争の悲惨さを伝える映画であるというところが、ストンと腑に落ちました。
なるほど、大林監督のファンタジーは、ゲルニカだといわれれば大いに納得です。
大林監督は、いわゆる敗戦少年世代。
子供の感性で、敗戦から一夜明けて、ガラリと180度変わってしまった大人たちを見ています。
まるで、戦争なんてなかったかのように、アメリカの文化におぼれてゆく大人たち。
それを違和感を持っていた見つめていた大林監督は、自分たちの世代を「平和孤児」だといいます。
彼の言葉で、強烈な一言がありました。
「今ここにいるあなたたちは、実は戦前を生きている人たち」
これは、ドキリとしました。
それは、その通りかもしれない。
気がつけば、我が国は、戦争に行く手続きをとっくに済ませているのですから。
だから、自分は、表現者として、表現者にしか出来ない方法であなたたちに、自分の経験したことは、出来る限り伝えなければいけない。
それが、余命を宣告されてもなお、自分が映画を撮り続けるモチベーション。
晩年の、大林監督の作品が、特に戦争の匂いが色濃くなってきたのには、そういう理由があったようです。
自分を、映画監督ではなく映画作家だと名乗る大林監督。
映画作家は、いま理解される映画を作っているようじゃダメだ。
「100年後にわかる映画」を作ってこそナンボ。
映画は、ウソだと、監督は言い切ります。
でも、そのウソの中に、実はマコトもある。
そして、それを可能にしているのが、映画が持っている美しさと力。
なるほど。
どうも、個人的には大林作品に仕込まれた監督のフィロソフィを、完全に見落として楽しんできてしまったようです。
これは、一度ちゃんと見直さないといけないと痛感。
大林宣彦様。
あなたの作ったCMの影響で、子供の頃の僕は、何度手で顎の下をさすって、こういったことか。
「ウーン、マンダム。」
改めて、大林宣彦監督のご冥福を心よりお祈りいたします。
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