1916年に発表された、森鴎外晩年の、有名な短編です。
サラリと読めてしまいますが、なかなか重いテーマを内包しています。
高瀬舟は、京都の罪人を、大阪に遠島する小舟のこと。
遠島というのは、言ってみれば護送みたいなことです。
この舟の道行を、担当同心と罪人が、顔を突き合わせていくわけです。
話は、二人の舟でのやりとりを描写した一幕もの。
同心の羽田庄兵衛は、島送りになるのに、妙に晴々しい顔をしているこの罪人喜助が不思議でなりません。
その訳を尋ねると、喜助は答えます。
「二百文もの鳥目をいただいた上に、食事までいただいて働けるのは、私にとってはありがたいことです。今の暮らしでは、身を粉にして働いても、お金は私の前を通り過ぎるだけ。
私は今までに、自分の自由になるお金など持ったことがありませんでしたから。」
弟と二人だけの暮らしで、辛酸を舐めてきた喜助にとっては、この島流しの生活は、今の暮らしに比べれば、ずっとありがたいというわけです。
庄兵衛は、我が身を振り返ってしまいます。
確かに、乞食同様の暮らしをしてきた喜平よりも、同心である自分の暮らしは人並みだ。
しかし、考えてみれば、その金が左から右に通り過ぎているのは、自分も同じではないか。
増えた収入に応じて、贅沢をすることで、結局手元には残っていない。
喜助よりも豊かな生活をしているはずの自分に、果たしてあの清々しい笑顔はあるか。
老子が言うところの、「足るを知る者は富む」です。
どれだけ稼いだところで、それをよしとせずに、欲の皮を突っ張らせると、結局永遠に幸福は得られない。
さらに、庄兵衛は喜助に聞きます。
「お前は、弟殺しの罪と承知しているが、詳しく聞かせてくれるか。」
喜助は、その顛末を正兵衛に語り出します。
親を亡くして兄弟二人きりの生活。
二人で、朝から晩まで働いても、いくらの収入にもなりません。
そんな時に、弟が病に倒れます。
その負担は、喜助に重くのしかかります。
それでも、喜助は文句ひとつ言わず、弟の分まで、粉骨砕身に働きます。
ある日、寝ぐらに戻ると、弟が血を流して苦しんでいます。
自分がいなくなることで、兄を楽にしてあげたい。
弟はそう思って、短刀で自分を刺していました。
しかし、死にきれない。
苦痛に顔を歪めながら、弟は兄に懇願します。
この苦しみから、自分を救ってほしい。
この短刀で、自分を殺して欲しい。
喜助は躊躇しますが、弟がもう助からないのはわかる。
覚悟を決めて、喜助はその短刀で・・・
そして、その瞬間を見ていた近所のものが、お役所に届けたという顛末。
確かに、弟を殺したのは喜助であることは間違いない。
しかし、これを人殺しとして裁いていいものか。
庄兵衛は、朧月夜の高瀬舟で、思わず黙り込んでしまいます。
これが、高瀬舟のお話。
森鴎外という人は、文学者でありながら、エリート軍医でしたから、戦場でこういう人たちをたくさん見てきたのかもしれません。
江戸時代の「翁草」という随筆集にこの素材を見つけて、「面白い」と思い、高瀬舟の話が出来たと、「高瀬舟縁起」という小文で森鴎外は言っています。
この短編が書かれたのは、大正時代の初期。
シーメンス事件で、山本権兵衛内閣が総辞職して、大隈重信内閣が政権を担った時代です。
第一次世界大戦の参戦を、御前会議も国会の審議も経ずに、閣議決定しまったのがこの人。
立憲政治確立の功労者で、早稲田大学を作った人としても有名ですが、この人は内閣総理大臣としては最低でした。
大チョンボが二つもあります。
一つは、史上最悪の選挙干渉を行なったこと。
そしてもう一つはあの悪名高き「対華二十一箇条要求」です。
落ち目の中国に対して、ほとんど恫喝に近い悪ノリで、領土の割譲と内政干渉まで要求したものです。
外務省が、築き上げてきた外交努力を踏み躙るような、大隈独断の蛮行でした。
欧米列強からも、アジアの帝国主義のトップランナーとして、認められつつあった我が国の立ち位置に、完全に慢心していたのがこの人ですね。
ここから、日本と中国の、長い長いギクシャクが始まります。
これを軍医として、内部から見ていた森鴎外ですから、彼は大隈総理に、言いたかったんじゃないでしょうか。
「足るを知れ!」
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