新憲法に関する演説草稿 幣原喜重郎
「青空文庫」から拾ったわずか5頁ほどの文書です。
幣原喜重郎は、戦後すぐの難しい時期、第31代内閣総理大臣に任命されました。
戦前は外相として活躍していた人ですが、戦時中にはすでに政界から引退して、隠盾生活を送っていた幣原。
しかし、親米派であったことから、首相に指名され、73歳の老齢で復活します。
GHQ占領下の日本において、教育・司法・経済の民主化、婦人参政権、労働組合の奨励、さらに、、軍国主義教育の追放、国家神道の廃絶、財閥の解体、農地改革などを命じられ、この諸改革を円滑にこなしていった手腕で、今でも評価されている人です。
今の我が国の危うい総理大臣も就任時は73歳でしたが、比べることさえ憚られるくらい、教養と実行力を兼ね備えていたリーダーですね。
最初は、荷が重すぎると、断っていたそうですが、周囲から請われて、覚悟を決めたということです。
その幣原の最大の仕事が、明治憲法の改正でした。
今の日本国憲法は、戦勝国から押し付けられた憲法だという人がいます。
果たして、本当にそうなのか。
本草稿を読む限りは、それはちょっと当たらないだろうという思いになります。
憲法改正問題は、多くの憲法学者や政治家が、護憲派、改憲派に分かれて、これまでも論争を繰り広げてきていますので、僕のような素人が口を挟む隙間はなさそうですが、一応主権者の一人として、日本国憲法公布に至るまでの歴史的事実だけは、ファクト・チェックしてみます。
まずは、そもそも論です。
1907年に制定された国際法ハーグ陸戦条約の第43条にはこう記されています。
「国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限、占領地の現行法律を尊重して、成るべく公共の秩序及生活を回復確保する為施し得べき一切の手段を尽すべし。」
つまり、いくら戦勝国といえども、被占領国に対して、既にある現行法を改正して押し付けるというのは国際法が毅然として禁止していたわけです。
もちろん、これはマッカーサーも承知していたはず。
連合軍最高司令官として、日本に着任した彼の脳裏には、いずれは母国アメリカの大統領に立候補するという青写真がありました。
そのためのステップとして、日本の占領政策を円滑に進め、敗戦国日本を、見事民主主義国家へ導いたという実績はどうしても欲しかったと考えられます。
そのために、あまり強引な手法を取っては、マイナス・イメージにつながると計算していたはず。
新憲法の作成は、その最も肝になる部分。
国際世論やアメリカ国民に、これを「強引で理不尽な押し付け」と取られてしまうのは、当然彼にとっても望ましいものではなく、憲法改正はあくまでも日本の主導で進め、自分はそれをサポートしたに過ぎないという体裁にしたかったというのがマッカーサーの本音でしょう。
ですから、この新憲法は、マッカーサーにとっては、理想的な民主主義国家になるための教科書を日本人自らの手で作らせたと評価されることの方が、彼のこの先の野望にとっては大きな意味があったということになります。
憲法改正にあたっては、まず幣原とマッカーサーによる憲法改正に関する会談がもたれています。
ここで、戦争放棄と平和主義を提案したのは、実は幣原の方からだったというのが通説。
しかし、この会談以前からすでに憲法改正に着手していた、当時の憲法改正担当大臣であった松本烝治による憲法草案が、GHQに提出されます。
しかし、この草案は、天皇が統治権を保持するという大日本帝国憲法の基本原則が変更されていなかったので、マッカーサーは難色を示します。
アメリカ以外の戦勝国代表が、日本に到着する前に、憲法問題だけは決着しておきたかったマッカーサーは、GHQ民政局のコートニー・ホイットニーに、憲法草案を作ることを指示。
その際に、「マッカーサー・メモ」を渡します。
このメモに書かれていたのは、「天皇は国家元首であるが、その権限は憲法に基づくこと」「戦争放棄。自衛も含む一才の交戦権は認めない」「封建制度の廃止」という3つの原則。
これを受けて、わずか8日間で作成されたマッカーサー草案が、松本草案の結果をお伺いに来た吉田茂外相と松本国務相に、その返事として渡されます。
これを受けて、閣議は大荒れになりますが、幣原はこのマッカーサー案をベースにして、松本草案の修正に着手。
その後、幣原は、再びマッカーサーと会談。
了承を得た後、この修正案は閣議にかけられ、了解を得ます。
天皇陛下もこれを了承し、日本国憲法が誕生するわけです。
1954年になって、「押しつけ憲法論」を展開したのは、松本烝治でした。
憲法作成過程は、GHQによる「脅迫」に近いというわけです。
自分が作成した草案をすげなく却下されたわけですから、彼が憤懣やるかたない心情は理解できます。
白洲次郎も、「この憲法は、占領軍によって強制されたものだと明示すべきだった」と言っています。
しかし、例えば憲法第9条第2項の冒頭に「前項の目的を達するため」という一文を入れることで、いっさいの交戦権を認めなかったマッカーサー草案に、自衛のための戦力保持に道を開いたのは、いわゆる「芦田修正」に依るものです。
新憲法の作成に当たっては、GHQと日本政府の間では、ギリギリの攻防が繰り広げられ、決して日本政府が、その脅迫に一方的に屈したとは言えないことも事実です。
日本国憲法に、GHQによるバイアスがあったことは事実でしょうが、果たしてこれを「押し付け」ととるかどうかです。
いかに、国際法により禁止されているとはいえ、敗戦国日本が、GHQからのバイアスがまるでない状態で憲法改正が出来ると考えるのは、いくらなんでも、ちょっとムシがよすぎる気がします。
そんな状況の中でも、幣原は極めて真摯に憲法改正と対峙しました。
敗戦国として、反省すべきは反省し、日本のあるべき将来の姿を深く思慮した幣原の思いは、戦後の混乱の中で必死に生きている多くの日本人の民意とともに、我が国の憲法には十分反映されているように思えます。
ちょっと、憲法に関する私見を。
敗戦で何もかも失った日本でしたが、実はこの日本国憲法だけは、敗戦したからこそ、手に入れられた唯一のものだと個人的には考えています。
もしも、日本が戦勝国であったら、決して「戦争放棄」が憲法に謳われることはなかったはず。
現に、独立戦争に勝って作られたアメリカの憲法には、今もなお、政府に対して革命を起こす国民の権利が認められています。
戦争に勝った国が、憲法を作れば当然そういうことになるわけです。
改憲派の人たちは、憲法とは、本来純粋に日本人によるものでなければならないと声をあげていますが、果たして、純粋に日本人の手だけで作った憲法が、今の憲法以上のものになったかどうか。
個人的には、甚だ疑問です。
そういうことになれば、少なからず「作り手」の都合や奢りが顔を覗かせるようになって然るべき。
確かに、日本国憲法は純粋に日本で作られた憲法ではないのかもしれませんが、少なくとも、あの時点での、世界中の憲法の叡智が盛り込まれていたことは事実。
そしてそれが、最も純粋な形で反映されることになったのは、むしろ日本が戦争に負けたという事情があったればこそだという気がしています。
憲法というものは、本来主権者である国民が、政府に遵守させるためにあるものです。
それを守るべき方が、「改憲」などと言い出すのは、それが甚だ窮屈で、鬱陶しいからに他なりません。
勝手に手を加えさせれば当然、自分たちの都合の良いように作り直すと考えるのが自然です。
つまり、敗戦したことにより生まれた日本国憲法は、むしろGHQのバイアスがかかっていたからこそ、そこに「日本政府の事情」が入り込む隙間がない、純粋に主権者に寄り添った形の憲法になり得たという話です。
安倍晋三元総理が掲げていた憲法改正(改悪)の野望は、彼の数々の悪行が明るみ出ることで最後は霧散してしまいましたが、彼にそれをさせるということは、憲法という檻で囲って、自由を規制していたライオンに、檻を内側から開ける鍵を渡すようなもの。
彼の憲法解釈が、いかに危うく不穏なものであるということは、彼が在任した8年の間に通した危険な法律や、自分勝手な法解釈が、ハッキリと物語っています。
さもありなん、クワバラ、クワバラです。
幣原喜重郎は、この演説の草稿でこう言っています。
「日本の前途は多難でありますが、暗闇ではありません。今は陣痛の苦しみです。」
その苦しみを経れば、この新しい憲法は、きっと新しい日本を甦らせるよというわけですね。
幣原喜重郎は、この大役を無事務めたことで、昭和天皇より激励を受けています。
本当にご苦労様でした。
あなたがこの仕事をした75年後を生きる日本人として一言。
グッド・ジョブ!
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