クウェンティン・タランティーノ監督の長編デビュー作ですね。
1992年公開の映画。
マンハッタン・ビーチ・ビデオの店員をしながら、古今東西の映画を見まくっていた彼。
映画オタクであるという以外何の取り柄もなかった若者が、名作、B級関わらず、とにかく自分が面白いと思ったシーンを巧みに映画の中に取り入れて、渾身の脚本を書き上げました。
これが本作のスタート。
しかし、映画を作ろうにも、資金もコネもないので、当初彼はモノクロの16mmで撮ろうとしたといいます。
そんな彼の自宅の留守番電話に、ある日、思いがけないメッセージ。
「脚本面白いね。是非出演したい。一緒に手伝わせてくれないか。もちろん、ボスは君だ。」
このシビれるメーセージの主は、俳優のハーヴェイ・カイテル。
彼のこの一言で、この監督のデビュー作は、世に出たと言ってもいいでしょう。
十代から、二十代にかけては、なにひとついいことがなかったというタランティーノの人生はこれで一変します。
カイテルの協力を得て、本作に登場する強烈な悪党たちを演じる役者たちが、一人一人揃ってくる過程は、まさに映画チック。
ちょっと、黒澤明監督の「七人の侍」を彷彿させます。
ハーヴェイ・カイテルは、映画においても、映画の製作過程においても、さしずめ侍達のリーダー勘兵衛を演じた志村喬といったところでしょうか。
まずこの映画の画期的なところは、冒頭です。
6人の男たちが、ダイナーに集まって、宝石強盗の打ち合わせでもするのかと思いきや、映画とはほとんど何の関係もないダベりを延々とするシーン。
カメラは、男たちの背後をグルグルと回りながら、6人の表情を舐め回しますが、セリフはといえば、マドンナの「ライク・ア・バージン」がどうとか、店へのチップがどうとか。
これが、やたら品のない言い回しで続けられます。
こんな脚本は、それまでのハリウッド・スタイルでは絶対許されないもの。
映画のストーリーとシンクロしないはセリフは削除されるか、書き直しさせられるのが常識です。
唯一、これを意図的にやったのが、フランスのヌーベル・バーグの監督たち。
トリュフォーやゴダールたちですね。
もちろん、タランティーノ監督は、彼らの作品にも入れ込んでいますから、当然影響を受けています。
そして、タイトル・バックは、黒のスーツに、黒の細いタイで統一した男たちが、並んで歩くシーンのスローモーション。
まあまあ、これのなんとスタイリッシュでカッコいいことよ。
フランスや香港のフィルム・ノワールから、日本のヤクザ任侠映画に至るまで、大量の作品を浴びるようにみまくっていたタランティーノ監督ですから、何かの映画に、このシーンのネタ元があったのかもしれません。
そして、本編が始まると、もうすでに強奪事件は終わっており、いきなり、ティム・ロスが腹を撃たれて血塗れという状況で、ハーヴェイ・カイテルと一緒に、アジトに戻るシーン。
宝石は強奪したものの、すでに宝石店の周りには、警官たちが包囲していて、メンバーは、それぞれで必死に応戦したことを、映像としては描かないで、想像させるだけです。
この辺りがなんとも憎い。
そしてここで、メンバーのうちの誰かが、警察に通じている裏切り者だというミステリーが発生します。
生き残ったメンバーが、そのアジトに一人一人戻って来るのですが、その度に、そのメンバーの過去がフラッシュ・バックされていくという展開。
このように、時間軸をひっくり返して、強盗事件を描くという展開の映画は、僕にも記憶があります。
スタンリー・キューブリック監督の「現金に体を張れ」ですね。
時間軸を弄って映画を構成する話法は、最近でいえば、クリストファー・ノーラン監督が有名ですが、彼のデビュー作「メメント」よりも、タランティーノ監督は、さらに8年早かったことになります。
ちなみに、メンバーが本名を明かさず、「色」で呼び合うという設定は、70年代のパニック映画「サブウェイ・パニック」にありました。(これは面白かった!)
本作で強烈な印象を残したのは、マイケル・マドセン。
刑務所から出所したばかりで、チームに加わったミスター・ブロンドを演じたのが彼ですが、そのイカれっぷりがゾゾっという感じです。
捕まえてきて、椅子に縛りつけた警官に、裏切り者を吐かせようと拷問するわけですが、正直そんなのどうでもいいよという感じの狂ったいたぶり方です。
この「切れっぷり」は、リュク・ベンソンの「レオン」で悪徳警官を演じたゲイリー・オーネドマンと双璧でしょう。
あともう一つ、僕にもピンときた拝借ネタは、ラストで三人が、それぞれに銃を向け合うメキシカン・スタンドオフ・シーン。
あれは、セルジオ・レオーネ監督のマカロニ・ウェスタン「続・夕陽のガンマン」ですね。
香港製のフィルム・ノワールにも、度々引用されていました。
とにかく、この監督は、本作以来、「映画を盗む監督」として有名になりました。
しかし、個人的には、これを否定しようという気はサラサラありません。
例え、オリジナルではなくとも、色々な映画の「いいとこ取り」をきちんとミックス・アレンジして、一本の映画の中で、再利用して、紡ぎ合わせるいうのは立派な才能です。
そして、そのシーンがどこから拝借されたのかを楽しむという、ビデオ時代の映画の楽しみ方も提示してくれた功績は大きいと思います。
本作はカルト映画としての評価を確立していますが、それを支える映画オタクたちを舐めてはいけない。
彼らは(僕もそうですが)、一度惚れたら、とにかく何度でも繰り返し、その映画を鑑賞します。最後には、セリフすら暗唱するほどにです。
そんな彼らの飛びつくようなマニアックなネタを、本編の中に散りばめるテクニックも、タランティーノ監督ならでは。
そんな映画マニアたちを虜にする手練手管に長けたこの監督の才能は、やはりタダモノではないといえましょう。
映画作りに、ルールはない。
とにかく、自分のやりたいことを好きなようにやっても、それが極上のエンターテイメントになるなら、誰も文句は言わないし、ハリウッドも製作費を惜しまないというわけです。
1990年台の映画界において、この流れを作った彼の功績は、大きいと思います。
実は、この映画を見て、彼の才能にいち早く気がついたのが、日本の映画オタクたちでした。
そして、日本でのヒットから、アメリカでも火がつき、「パルプ・フィクション」が作られたというのがタランティーノ作品の流れ。
今や、政治も経済も、世界の二流から三流に成り果て、坂道を転げ落ちている感のある我が国。
なんとか世界に誇れるのは、今やオタク文化くらいのものかもしれません。
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