本作も、見逃している名作の一つでした。
色々な映画関係の本からの知識で、その名声だけは承知していましたが、ちゃんと見たのは今回が初めて。
第一部、第二部合わせて、190分という大作です。
製作されてから、すでに76年が経ちますが、フランス本国での人気はいまだに絶大。
ちょうど、アメリカ人にとっての「風と共に去りぬ」に相当するのが、フランス人にとっての本作なのだろうと理解しています。
公開されたのが、パリ開放後の1945年。
つまり、この映画が製作されていたのは、まさにパリが、ナチスドイツによって占領されていたヴィシー政権下なのですから驚きです。
この時期、ジャン・ルノワール、ルネ・クレール、ジュリアン・デュヴィヴィエといった名だたるフランスの監督たちは、みんなアメリカに亡命していましたから、あえてフランスに残り、困難を承知で、3年半の歳月をかけて映画を撮り続け、反ファシズムを貫いたこの監督の心意気を賞賛するフランス国民が多いからこそ、本作は永遠の名作として、フランス映画史上に燦然と輝き続けているのでしょう。
国は占領されても、文化の火は消さないというフランス人の、芸術への愛情とプライドが、画面の隅々から感じられました。
タイトルにあるように、チープな天井桟敷の観覧席から、大歓声をあげて歓喜する観客こそ、まさにこの映画の隠れた主人公なのかもしれません。
まず、1840年代のパリの街並みを南仏ニースに再現したオープン・セットが圧巻。
「風と共に去りぬ」は、南北戦争を舞台にした一大スペクタクル叙事詩でしたが、本作は、
自由奔放な美女ガランスと、純粋一途なパントマイム芸人バチストとのロマンスを軸にした、群像恋愛劇であるというのが、いかにもフランスらしいところ。
あの名曲「枯葉」を作詞した詩人ジャック・プレベールが本作の脚本を担当していますが、ちょっと歯の浮くような名台詞の数々も、いかにもフランス・テイストで本作にはしっかりフィットしていました。
「恋するなんて簡単よ。」
「愛し合う二人には、パリは狭いわ。」
アルレッティ演じるガランスは、まさにフランス国旗に刻まれた「自由・博愛・平等」を体現しているような女性。
束縛されることを嫌い、自分の気持ちには常に忠実であろうとするこのヒロインに、ピュアな心を持つバチストは、最後まで翻弄され続けます。
フランス映画に造詣の深い友人がいて、ヨーロッパに住んでいたこともある彼は、こう言っていました。
「フランスは、熟女礼賛の文化。どんなに綺麗でも、二十代ではお人形さん扱い。
フランスでは、女性の魅力が開花し、本当のレディ扱いされるのは四十代から。」
なるほど。
これは本作を見れば、大きく頷けるところ。
1898年生まれのアルレッティは、本作撮映当時、40代前半。
監督のマルセル・カルネよりも年上で、相手役のジャン=ルイ・バローとは、一回りも年齢差がありました。
バチストの妻ナタリーを演じたマリー・ナザレスとは、さらにもう一回りの年齢差がありましたが、芳香漂う若いナタリーと、ガランスは堂々と恋の鞘当てを繰り広げて、遜色なし。
見ているこちらも、最初はピチピチのナタリーの美しさに惹かれていましたが、最後には、経験豊富なガランスの年増の魅力にすっかりやられていましたから、僕もフランス人同様れっきとした熟女嗜好と言えそうです。
最も、40代でも輝けるのは、「女であること」を忘れていない女性に限ることだけは、申し添えておきましょう。
結婚し、子供を持ってもなお、ガランスに対する想いを捨てきれないバチスト。
妻子も捨てようとするバチストに対して、ガランスは、自らの愛は封印しつつ、ラストで毅然と背を向けて、祭りで賑わうパリの街の中へ。
自由であるには、それに伴う対価をきっちり払わなければならないこともしっかり伝えて、映画は幕を下ろします。
チャップリンの「独裁者」は、確かに反ファシズム映画としては、とてもわかりやすいですが、こういう形で訴えてくるのが、いかにもフランスらしいところ。
日本では、国威発揚映画が幅を利かせていた時代に、堂々とこんな映画を作り上げてしまうのですからフランス映画の底力を感じます。
フランスの三色国旗は、伊達ではありませんな。
我が家には、野口久光氏の手による本作日本公開時のポスターがしっかり貼ってあります。
これがまたいい感じなんだよな。
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