饗宴
今から2400年も前の、ギリシャ時代に書かれた哲学バラエティが本書です。
著者はプラトン。
デカルトの「方法序説」、カントの「純粋理性批判」、サルトルの「弁証法的理性批判」といった大上段に構えた哲学書とは違って、本書は登場人物たちのディスカッション形式で話が進行する戯曲スタイルの哲学書です。
もちろん物語は全てプラトンによるフィクションですが、登場人物は、全て当時のギリシャに実在した人物たち。
彼らのキャラを借りて、プラトンが愛(エロース)の深淵へと読者を導いていくというのが本書「饗宴」です。
原題の「シンポジオン」は、今でいえば、ちょっとした「飲み会」くらいの意味。
いってみれば、「恋話(コイバナ)」ホーム・パーティです。
詩人アガトン執筆の悲劇がコンクールで優勝したので、その祝賀会に5人が招待されます。
宴もひとしきり過ぎたところで、参加者の一名が、「エロースについての演説会をやろうじゃないか。」と切り出します。
誰が一番雄弁に愛の神エロースを称えられるのかを競おうというわけです。
畑作業しながらよく聞いている歴史系教養動画によれば、このギリシャ時代のアテナイの人たちは、とにかく暇だったようです。
男たちは、戦争がなければ特にやることもなく、街角でディスカッションばかりしていました。
なにせ、一般の家事雑務をやらせるのに、市民一人平均20人くらいの奴隷を所有していたというのですから、自分でやることは家には何もなく、街に出てはブラブラしていたというわけです。
しかし、戦争になれば命を張って戦う男たちには、参政権が認められており、これがギリシャにおける直接民主政治へとつながっていきます。
そうなると、男たちには、自分の意見を通すために、大衆の前で朗々と持論を述べる技術が必須となってきます。
そこで、当時のアテナイで人気になった商売がソフィストと呼ばれる弁論のテクニックを教える職業教師たち。
彼らは、ちょうど日本の人気予備校教師のように、当時のギリシャで稼ぎまくっていたようです。
そんなわけで、当時のアテナイにおいては、演説大会は、ちょうど今の日本のカラオケに匹敵するような人気のエンタメでもあったわけです。
しかし、テクニック専攻で、詭弁だけが罷り通る当時の風潮に、真っ向から異議を唱えたのがプラトンの師匠ソクラテスです。
自らの「無知の知」を自覚した上で、街の弁舌自慢のエセ知識人たちを片っぱしから、得意の対話術で凹ましてゆくソクラテスは、やがてそんな彼らから逆恨みされて、裁判の場へ引き摺り出されて、死刑を宣告されてしまうわけです。
そんなソクラテスを、本書「饗宴」のオオトリとして、プラトンは想像上のキャスティングしているというわけです。
本作の第一部は、列席者5人による、愛の神エロースの大讃美演説大会です。
そして、その後で、満を持して、ソクラテスにバトンが渡されますが、彼は決して声高らかに自説を主張することはありません。
その巧みな対話術によって、演説者の主張は静かに論破されていきます。
そして、彼の主張は、自分自身もまたディオティマという女性から教えを乞うたという形で一同に語られ、彼らは次第にエロースの深淵へと導かれていくというわけです。
ですから、本書の骨子に 早々とたどり着きたいなら、第一部の酔っ払いたちの演説大会はすっ飛ばして、ソクラテス・パーツから始まってもよかったものを、プラトンはなぜわざわざ第一部を導入部にしたのか。
これは、やはり自分の師匠を死に追いやった憎むべきソフィストたちを、本書の演説者たちに見立てて、彼らをソクラテスに論破させることで、まずは師匠の名誉回復を果たしたかったということがあるかもしれません。
あるいは、昔々のインドでは、お釈迦様が仏教の真髄である法華経を解くために、当時まだそれを理解するリテラシーを持たなかった人たちに、まずはその導入部として、方便品から説いたことと似ているかもしれません。
「ウソも方便」という言葉もありますが、例え嘘でも、まずはわかりやすいところから理解してもらいましょうという教育スキルですね。
演説者の一人アリストパネスはこう主張しました。
男女は元々ワンセットで一つの塊だった。
彼らは神ゼノンに反抗的態度を取ったことで、怒りを買い、体を真っ二つに裂かれてしまった。
それが男女というパーツに分かれ、裂かれた男女は元の体に戻ろうと、お互いを求め合うこととなった。
これが男女の恋愛の起源だというわけです。
もちろん、ツッコミどころ満載な主張なわけですが、英語で夫婦が互いのことを”Better Half”という言い回しなって残っていることは事実です。
要するに、わかりやすければ、それはそれということ。
演説の中には、愛を語る上での、魅力的な「つかみ」も、それなりにあるということではあります。
ですから、あえてそれを論破してから、次のステップへ進むというプラトンの作劇構成(?)は、後の重々しい哲学書にはない不思議なバラエティ感と、文章を残すことはしなかった師匠ソクラテスの功績を、できる限り正しい形で後世の人に伝えたいというリスペクトに溢れているということは伝わってきます。
さて、それではソクラテスの説いたエロースの奥義とは何か。
さあ、これが問題。
これが、迷い多き令和の百姓には、なかなかのクセモノでした。
2400年も前のギリシャ哲学者の恋話は、思わぬ方へと展開していきます。
まず、愛の第一段階として、ソクラテスはこう言います。
愛はまず美しい肉体に向かう。
なるほど、エロースがこれなら、エロオヤジとしては大いに納得です。
しかし、彼は次にこう言います。
但し、美しい肉体はそれだけではなく、他にも存在する。
そのことを認め、同じように愛すること。
ん?
なんだそれは。
はて、プラトンさん。それって浮気はどんどん奨励するということ?
うなづくにはちょいと微妙な展開です。
次にはこう来ます。
美しい肉体には、美しい魂が宿る。肉体よりも魂を愛せ。
ん?
待て待て。
美しい魂を愛せはいいが、では美しくない肉体には、美しい魂は宿らないとおっしゃる?
この世の中には、今も昔も、美しい肉体よりも、そうでない肉体の方が圧倒的に多いという事実はご存知ない?
それでは、全世界の不美人を敵に回しませんか?
さらに愛は、魂よりももっと尊い学問的知識に向かう。
真理や真実を求めるエロースこそ、究極の愛。
エロースの最も尊い形は、学問に対する愛情だ。
ちょっと待った。
いくらなんでも、ちょっとそれはないんじゃないでしょうか。
それでは、今の世の中で言えば、学術会議の面々や、大学教授たちこそ、真実の愛を知る者たちで、僕のような無学文盲の百姓は、せいぜい美しい肉体に思いを馳せるだけの程度の低いエロースで納得していなさいということか。
天下の哲人ソクラテスに喧嘩を売るつもりはありませんが、やはり一言くらいは言いたくなってしまいました。
「あなた、本当に心から人を愛したことはありますか?」
そこで、ふとソクラテスの肖像画を見るわけです。
なるほどなるほど。
これは弟子のプラトンや、そのまた弟子のアリストテレスと比べてみると一目瞭然。
申し訳ないが、この偉大なる哲人だけは、どう贔屓目に見てもイケメンとは程遠い容姿です。
ちょっと女性にモテたとは思い難い。
そんなあなたが、美しい肉体よりも、学問を偏愛するのは、ひょっとして屈折した負け惜しみではないですか。
本書を読みながらも、まだまだ愛の奥義にも、哲学の深淵にも辿り着けない老百姓の煩悩は、プラトンがわかりやかく示してくれたはずのエロースへの理解を、大いに妨げているようです。
哲人ソクラテスに対して、少々非礼なことを申し上げましたが、この時代のギリシャを語る上で、どうしても外せない常識があることを失念しておりました。
それは、この時代に流行していた「少年愛」と呼ばれるもの。
この時代の知識人の多くは、少年たちと深い師弟愛で繋がった主従関係を結んでおり、彼らは、少年たちと肉体関係も持ちながら、惜しみなく教育という名で知識という愛も注いでいたということ。
そして、ソクラテスは、この少年たちからは、メチャクチャに敬愛されていたらしいんですね。
つまり、ソクラテスの言う「美しい肉体」も「美しい魂」も、もしかしたら念頭にあったのは、見目麗しい女性ではなく、無垢な少年たちであったのかもしれません。
本書には、ソクラテスの弟子であったアルキビアデスが、酔っ払って「饗宴」に乱入し、その勢いで、ソクラテスを賛美する演説を始めるシークエンスがありますが、絶世の美少年だった彼が、師匠ソクラテスを誘惑しても、彼はそれに屈することはなかったと白状しています。
どうやら、ソクラテスの哲学者としての自制心は、プラトンの目には本物に見えたかもしれません。
肉体への愛は、学問への愛と比べれば、ちっぽけなもの。
愛がそちら方向にも広がるものだとすると、なかなかエロースを理解するのは僕には難しそうです。
死ぬまでに、もう一度くらいはこの哲学書にチャレンジしないと、どうやら真実のエロースには辿り着けず、単なるエロ親父で終わってしまいそうです。
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