モモ ミヒャエル・エンデ
さて、今回読んだのは、ミヒャエル・エンデの「モモ」です。
児童書ではありますが、世界中の大人からも愛された名著です。
図書館のドイツ文学の棚にはなかったのですが、探したら、ちゃんと児童文学のコーナーにありました。
1973年の発表ですから、この手のファンタジーとしては、比較的新しいと言っていいでしょう。
エンデの作品としては、小説ではありませんが、映画なら一本見ています。
1984年のドイツ作品「ネバー・エンディング・ストーリー」ですね。
あれは素敵な映画でした。
「スター・ウォーズ」や「ハリー・ポッター」のような派手さはありませんが、手作りのSFXがなかなか渋い味わいのファンタジー映画です。
リマールが歌った主題歌も大ヒットしましたね。
この映画の原作小説は、1979年の発表ですから、本作はそれよりも6年早く発表された作品ということになります。
その副題が、ほぼこの物語を説明しきっています。
「時間どろぼうと、ぬすまれた時間を、人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語」
まさにこの通りの小説です。
とある街の郊外にある円形コロシアムに、ある日突然不思議な女の子が住み着きます。
名前はモモ。
彼女には、不思議な力があります。
それは「聞く力」(同タイトルの阿川佐和子のベストセラーがありました)。
モモは、コロシアムに来るどんな人の話も真剣に聞きます。
そして、なにかアドバイスをするわけではないのに、彼女に話を聞いてもらった人たちは、みんないつの間にか自分で何らかの解決法を見つけていきます。
モモには、すぐに友達ができます。ベッポじいさんとジジです。
ベッポじいさんは掃除夫。彼は絶対にウソは言わないと決めている老人で、そのため安易に返答をしません。だから、なかなか会話が成立しません。
反対にジジは、口達者で、頼まれもしないのに、円形コロシアムのガイドをしたりしています。
話を盛る癖があって、そのガイド内容は面白いのだけれど、かなり怪しいもの。
けれど、モモはそんな二人が大好きで、二人もモモを大切に思っています。
ある日街に、灰色の服に身を包んだ怪しげな男たちがやってきます。
彼らは、すべて「時間貯蓄銀行」のセールスマン達。
彼らは、街の住人に営業をして回ります。
「あなたたちは無駄な時間を過ごしていませんか? その時間を私たちに預けていただければ、いずれ倍にしてお返しします。今すぐ時間の節約を始めましょう。」
街の人たちは、次々と彼らに口車に乗って、契約を結び、それ以降、みんな、ゆとりのない慌ただしい生活を送るようになってしまいます。モモのいる円形コロシアムに来る人もいなくなってしまいました。
モモが街へ行ってみると、人々は、みんな人が変わったように、あくせくと働いています。
誰もモモの相手をしてくれません。
モモは、時間貯蓄銀行の1人から、得意の聞く力で、彼らの本音を聞き出します。
それは恐ろしい話でした。
彼らは街の人から預かった「時間」を返すつもりなどなく、貯蓄された時間は、全て彼らが奪ってしまい、使われてしまうというのです。
街の人々を救いたいモモは、現れたカメのカシオペアと一緒に「時間の国」へ向かい、マイスター・ホラと出逢います。
そして街に戻るモモですが、たった一日いただけの「時間の国」から戻ると、街ではすでに一年の時間が過ぎていました。
街はさらに慌ただしくなって、ベッポもジジも、かつての2人ではありません。
時間貯蓄銀行の罠が、子供たちにまで及んでいるのを知ったモモは、街の人々を助けるべく、もう一度「時間の国」に戻り・・
というわけで、本作のテーマは「時間」です。
エンデは、ファンタジーというツールを駆使して、時間というものの本質とその大切さを、暗示的に、ディズニーランドのアトラクション感覚で、子供たちに伝えようとしました。
登場する個性的なキャラクターたちには、それぞれに、読者に何か伝える役割が与えられているように読めます。
子供たちは、たとえ本作に隠されたテーマには気が付かなくとも、少なくとも、小説を通じて、自分の好きだったキャラのイメージなら記憶に焼き付けるでしょう。
そして、そのイメージを脳裏に刻んだまま、大人になっていき、さまざまな経験を増やしていく中で、ある日突然、エンデが本作に仕掛けたテーマの意味を理解できたなんてことが、もしかしたら、世界中で起きているかもしれません。
小泉今日子が、本作の大ファンであることを公言していましたが、年齢を重ねてから再読することで、本作は、まるで手品の種明かしを見せられたように、新しい発見をさせてくれるようなことがあるのかもしれません。
今回は、なかなか面白く読ませてはもらいましたが、児童文学なのですから、やはり本作は子供の頃に読んでおくべきでした。
これは、今更ながら深く反省。
残念ながら、世間の垢に塗れた老人には、子供の頃のような純真無垢な感性は、経年劣化の果てに、すでに雲散霧消しており、エンデが本作に託した、「時間」というテーマを、どこまで素直に受け止められたかは甚だ疑問です。
サラリーマン時代は、時間を大切にするということを、どこか勘違いしていた節があります。
つまり、限られた時間をきちんと管理し、付加価値をつけることが、時間を大切に、そして有効に使うことなんだと勝手に思い込んでいましたね。
とにかく、新しもの好きでしたので、スマホ以前には、電子手帳なども使っていました。
そのスケジュール管理アプリに、仕事の予定を埋めていくことで、なにか一端のビジネスマンになったような気になっていたものです。
そして、仕事だけでなく、プライベートの方も同じように管理していきます。
ビデオカメラ片手の一人旅も、バンド活動も、好きな映画の録画なども、全てはこれで管理し、ずいぶん先の予定まで決めていたものです。
忙しいなら忙しいなりに、限られた時間は上手に工面して、それを無駄なく有効的に使うことが、時間を大切にすることなんだと信じていた節があります。
例えば、大きな道楽の一つである、旅行を例に挙げましょう。
まずは、行き先が決まれば、その計画をきっちり立てるところから楽しむわけです。
そして、旅先では、ビデオ・カメラを回しながら、旅番組のレポーター気分で楽しむ。
帰って来れば、その動画を編集して、一つの作品にすることを楽しむ。
もちろん出来上がったものは、会社の連中を招いて鑑賞会。
まだ、YouTubeなど、影も形もない時代のことですが、やっていたことは今のYouTuberたちと変わらなかったかもしれません。
つまり、旅行は、出かける前は予定を立てることで楽しみ、出かけたら、動画を撮ることで楽しみ、帰ってきたら編集することで楽しむ。
そんなふうににして、一度の旅行で三度楽しむ。
こんな有効的な時間の使い方はないだろうというわけです。
確かに、記録に残すという付加価値をつけることで、旅の楽しみの「濃さ」は、増幅したかもしれません。
でも、本当にそれが、時間の正しい使い方なのか。
これに、次第に疑問が浮かぶようになったのは、だいぶ年齢を重ねてからでしたね。
時間を有効に使うことが、果たして本当に時間を大切にしていることなのか。
敬愛する養老孟司翁が、何かのエッセイでこんなことを言っていたんですね。
「スケジュールに予定を書き込むことで、現代人は自分の未来を削っている。」
そして、こうもおっしゃいます。
「大人たちにはなくても、子供なら誰でもが平等に持っているたった一つの財産は未来。
しかし、今の親たちは、それが子供たちのためだと思い込んで、いい学校に入り、大きな会社に就職(非正規ではなく、正規社員として)するようにと尻を叩く。
未来とは元々不確定なもの。どうなるかわからない不確実性があるからこそ未来であるはずなのに、親たちは真っ白な子供たちの未来に、乱暴なスケジュールを書き込むことで、子供たちの未来を奪っているということに気がつかない。それは愛情ではなく、単なるエゴ。
未来の正しい楽しみ方は、とにかく、どうなるかわからない明日にワクワクすること。」
養老氏は、実はファンタジーの大ファンで、本作の感想もどこかの著作で述べられていましたから、この言説は、ひょっとすると本作を踏まえた上でのことだったかもしれません。
なるほど、未来というものは、全てを無駄なく管理していることではなく、まずは何も決まっていない白紙の状態であるということが前提ということか。
こんな疑問が頭をもたげてくると、今まで自分が信じていた時間との付き合い方が、かなり怪しくなってくるわけです。
松任谷由実のこんな歌がありました。
アルバム「OLIVE」に収録されていた一曲で、タイトルは「未来は霧の中」。
こんなフレーズがあります。
“私は9つ 覚えているのは まだ未来が霧の中”
世の中がどうなるのか、そして自分が何者なのか、その全てが深い霧の中にあってこそ、子どもたちにとっての未来は、未来である。
未来は、見えないからこそ、子どもたちにとって価値があるというわけです。
しかしそんな子供たちも、やがては大人になります。
霧は次第に晴れて、どうしようもない現実は、やがて子供たちに牙を剥いてきます。
そうなれば、彼らが無限に持っていたはずの時間は、次第に蝕まれて、未来が削られていくことになるわけです。
人間が誰しもが自分達が作った社会というシステムの中で、生きていかざるを得ない以上、誰一人このルールからは逃れられないようにも思われます。
しかし、著者は、明らかにそれを前提にして、この物語を書いています。
ならば作者は、あなたたちを待っている未来は、決して明るいものではないよと言いたいのでしょうか。
そうかもしれませんが、もちろんそれだけではないはず。
そうでないとすれば、エンデは、子供たちにどうすればいいと言っているのか。
作者は、子供たちへの物語と見せかけて、実は大人たちにこそ問題提起をしているのではないかとさえ思ったりもしました。
確かに、時間の問題は、子供たちよりは、年齢を重ねた大人たちにとってこそ、身につまされる問題であることは確実です。
時間貯蓄銀行の灰色の男たちは、無駄な時間を節約して、将来のためにその時間を貯蓄しろと街の人々に迫ります。
当然、そのために犠牲になるのは、今の生活の無駄に思える時間です。
いろいろなことをスピーディに合理化することで、街の人たちは、時間だけでなく、実は仕事の成功も手に入れることになります。
ガイドのジジも、床屋のフージーさんも、それによって、それまでの人生では手にすることのなかったお金は手にすることになります。
無駄を省いて、時間を有効に使えば、ついでにお金も入ってくるわけです。
お金が嫌いな人はいません。
それでは、お金とはいったいなんなのか。
忙しく働くことと引き換えに手に入れることの出来るお金は、果たして本当に犠牲にした時間の対価になるのか。
忙しいとは、「心」が「亡びる」と書きます。
どんなにお金が手に入っても、それで心が病んでしまったら、元も子もありません。
反対に、心が亡びずとも、お金がなければ、生きていけませんので、暮らしは壊れます。
もちろん、それほど働かなくても、お金には困らないという上級国民もいらっしゃるでしょう。
じゃあ、物質的には恵まれた、そんな彼らは、果たして幸せなのか。
いや、そうとばかりも言えないかもしれません。
金持ちでも、不幸な人は確実にいそうです。
となれば、つまるところ、どんな人生もやって見ないと、わからないということ。
だとしたら、先のことは何を考えても無駄ということになります。
結局のところ、今自分の目の前にある現実に向き合って、自分の選択を否定することなく、「これは未来のためには何か役に立っている」と言い聞かせて、それを一つ一つ確実にこなしていく他はないのかもしれません。
確かにそう考えることができれば、人生にとって無駄なことはなくなります。
なるほど、ここまで考えが至れば、それまで無駄かもしれないと思って節約してしまった時間全てが、無駄ではなくなりそうです。
そこで、ハタと思い当たりました。
ここでまた旅行の話です。
きっちりと予定を吟味して、しっかりと計画を立てた旅行は、もちろん何度も経験してきました。
ところが、振り返ってみると意外に記憶に残っていることといえば、予期できなかったアクシデントなどのせいで、予定が計画通りに通りに行かなかったことの旅の方なんですね。
もちろん結果オーライのアクシデントばかりではありません。
ところが、旅の記憶としては、後になってみれば、こちらの方が断然鮮烈に思い出すことが出来て、しかも愉快なんですね。
なるほど、旅は予定通りに行かない方が楽しいものか。
確かに、後で人に語るときも、圧倒的にこちらがネタになることが多いわけです。
反対に、予定通りに行った旅行は、案外記憶に残っていなかったりします。
だとしたら、旅行の醍醐味は、一切の予定を立てず、全て行き当たりばったりで、何が起こるかわからないアクシデントだけを楽しむこと。
そうなれば、僕にとっての旅は、子供たちにとっての、未来と同じです。
一切の予定を立てない、どちらへ行くかは、その場の風まかせのブラリ旅。
まるで、「男はつらいよ」の寅さんみたいですが、こんな旅も一度はやってみる価値はありそうです。
果たして、それで旅が楽しめるものか。
こればかりはやってみないとわかりませんね。
要は、こちらに「うまくいかない」ことも含めて、旅を楽しむ心の余裕があるかどうかが試されるのだと思います。
本作を読んで感動した子供たちも、また現実の世界に戻れば、それぞれの暮らしがあります。
そして、そこには、ベッポやジジ、カメのカシオペアはいないことは、誰もが承知しています。
モモに力をくれた、マイスター・ホラの「時間の花」も、現実の世界にはありません。
しかし、それでも確実にあるのは、それぞれの現実と、それぞれの未来です。
これはもう百人いれば百通りの人生があるとしか言いようがありません。
それでも、ただ一つハッキリしていることは、使った時間のツケは、最終的には、大人になってから、それぞれが払うしかないということです。
世の中には、親の愛情と期待を背負って、順風満帆な人生を送る人もいます。
反対に、親の愛情には恵まれなかったけれど、自分の努力で、人生を切り拓いて来た人もいるでしょう。
もちろん、それが出来ずにドロップアウトした人もいるはずです。
その家庭環境は決して平等なものではないかもしれません。
ただし、どの子供にとっても、時間だけは平等にあります。
ちなみに、我が両親は2人で常に忙しく書店経営をしていたので、いつも側には居てくれましたが、ほとんど構ってはもらえませんでした。いわゆる、なりゆき上の放任主義というやつ。
我が両親から、「勉強しなさい」と言われたことだけは、ただの一度もありませんでしたね。
しかし、そのおかげで、よその家庭よりは、子供としては好きなようにさせてもらったという記憶は残っています。
その結果60歳を超えた現時点では、妻も子供も持つことなく、30年勤めた会社を定年退職をして、今は百姓をしているような人生です。
野菜作りは結構楽しめていますので、人生の最後で、また好きなことをやらせてもらうという選択をさせてもらっています。
この選択をした人生の収支がどう出るのかは、まだまだ先かも知れませんが、旅行なら、あれだけきっちりと予定を立てて楽しむ性格だった自分が、人生の予定となると、よくもまあ後先を考えずに、無茶苦茶な実行したものだと、我ながら感心しています。
しかし、よくよく考えてみれば、これまでの人生がほぼ自分の予定通りではなかったこともまた事実。
かくなるうえは、覚悟を決めて、決して予定通りには行かない人生そのものを楽しむというのも、自分なりの帳尻の合わせ方だという気もします。
意外とそんなところが、エンデが本作に潜ませた、子供たちに向けた、メッセージの一つの解釈かもしれません。
いいでしょう。上等。
最後に一つ。
あなたの家の近くに、もしボロを纏った不思議な女の子が現れたら、すぐにお近くの児童相談所に連絡しましょう。間違っても、自分の愚痴など聞いてもらいになど行かないように。
すぐに、児童虐待で通報されますので。
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