二十代前半までは、ただモテたい一心で、せっせとラブ・ソングをつくったりもしていましたので、恋愛小説やこの手のエッセイを読みあさっていた時期はありました。
比較的出来のいい曲は、ガール・フレンドに聞かせたりもしていましたが、結局それでモテたという実感はないので、そんな「恋愛論」研究も、あまり役には立っていなかったようです。
基本は、惚れやすいタイプでしたので、手痛い失恋経験なら、それなりに経験もあります。
もちろん、その体験をもとに、失恋ソングも作ったりしましたが、好きだった女子に聞かせると、思い入れたっぷりのラブ・ソングよりは、こちらの方の出来を褒められることもしばしば。
作り物のラブ・ソングよりも、リアルな失恋ソングの方が、女心には届くものなのだと学習させてもらいましたね。
下心いっぱいの身としては、気持ちは複雑でしたが。
さて、恋愛に関するものといえば、おそらく古今東西無数の著作があるのだろうと思います。
今や雑誌を開けば、「恋のテクニック」特集は、男性誌でも、女性誌でも、季節ごとに、手を変え品を変え、特集が組まれています。
恋愛といえば、どんな人にとっても、最も身近な関心ごとでしょうから当然と言えば当然。
しかし、恋愛くらい多様性のあるジャンルはないだろうと思います。
100人いれば、100通りの恋愛論がありそうです。
どんな人でも、大恋愛をしたり、大失恋を経験すれば、才能次第では、その経験をなんらかの形でアウトプットしたくなる衝動は自然に湧き上がってくるものなのかもしれません。
音楽の素養があれば、それは心に染みるラブ・ソングになるでしょうし、絵の才能があれば、マネやルノワールなどの印象派の画家たちのように、自分達のミューズをキャンパスに描いたでしょう。
そして、文才があれば、「恋愛論」とまではいかなくとも、その経験をベースにした恋愛小説、今なら、さしずめブログのネタくらいにはしたくなるかもしれません。
すでに還暦も超えた老人ではありますし、色恋の現役はとうに引退している身ですが、恥ずかしながら、若い頃には、それなりに恋愛の真似事くらいした経験はありますし、その昔パソコン通信なんてやっていた頃には、ニフティの「恋愛フォーラム」という会議室の管理人などをやっていた経験もあります。
今はもう、そんなこんなも枯れ果てて久しい身ではありますが、そんな年齢になった自分に、ちょっと恋愛論などふっかけてみるのも面白いかなという気になりました。
しかし、今さらモテ自慢の恋愛指南書など読んでも時間の無駄です。なので、今回は古典の中から一冊。
容姿に難のある身としては、著者がイケメンでないことを条件に探したところ、ヒットしたのが本書。
スタンダールの「恋愛論」です。
スタンダールといえば、「赤と黒」「パルムの僧院」などで有名なフランスの小説家です。
双方とも、本としては読んでいませんが、映画は見ています。
両作品とも、主演しているのは、当時のフランス一の色男ジェラール・フィリップ。「ファンファン」の愛称で親しまれた美男スターです。
しかし、原作者のスタンダールの方は、肖像画を見る限り、とても美男子とは言えない容貌の持ち主。
しかも、Wiki によれば、本作は、35際になったスタンダールが、マチルダ・デンボウスキーという女性に大失恋をした後で書かれたものとのこと。
才能のある人が、その経験を冷静に分析することで、乱れる感情をなんとか自分の中で整理しようという気持ちになることは、大いに理解できるところ。
よしよし。
そういうことなら、「恋愛論」とはいえ、老人にも共感のできることはあるかもしれないというわけです。
200年前の、ナポレオン時代のフランスであれ、Covid-19が、どっしり腰を据えてしまった21世紀の日本であれ、世の中の仕組みは変われど、こと恋愛事情ということになれば、洋の東西を問わず、根本的にはそれほどの差はないだろうと思った次第。
さて、本書の中で最も印象的なものは、恋愛感情が生まれる時に発生する「結晶化作用(cristallisation)」というやつです。
恋愛の初期には、この作用が起こり、愛する対象が美しく見えるとスタンダールはいうわけです。
これは、現代風に翻訳すれば、「恋は盲目」、もしくは「アバタもエクボ」ということになりましょう。
但し、この結晶化作用には、時間制限があるということに、やがて気がつくことになります。
さだまさしが、名曲「恋愛症候群」でこう歌っています。
♩
けれども一年二年と経つうち見えてくるんですよ
愛とは誤解と錯覚との戦い
しかし、スタンダールは、知識人の意地にかけて、自分自身の恋愛感情を冷静に分析することで、自分の失恋の総括を試みようとします。
古今東西の様々な文献からエピソードを抽出し、出来る限り科学的な視点を導入。
精神や感情は、人間のものである以上、恋愛は生理学で説明されるべきと考え、恋愛という感情の示す微妙な心の動きの機微に対して、失恋の当事者でありながら、努めてニュートラルな立ち位置から、幅広い考察を行いました。
「無理をするなよ。辛いなら愚痴の一つでも聞いてやるぞ。」などと思いながら読んでいましたが、それをやってしまったら、おそらく200年経っても読み継がれる名著にはならなかったかもしれません。
『恋愛論』の中で、「恋愛の誕生」は、次の段階で説明されます。
1)賞賛(admiration)。
2)妄想
3)希望(espérance)。
4)恋愛感情の発生
5)最初の結晶化の始まり。
ここで、注目したいことは、結晶化が始まるのは、相手からの恋愛感情を獲得してからのことだということ。
逆に言えば、相手から愛されていると確信できない時には、相手を美化する作用は起こらないとスタンダールは述べています。
この辺りは、映画を身漁って、心ときめいた美人女優には、片っ端から「恋」をしてきた映画ファンとしては、好きになった女優は、ことごとく妄想の中で美化してきた覚えがありますので、なんともいえないところ。
美人という「才能」を活かし、スクリーンの中で輝いているような女優たちには、少なくとも「自分は美しいのだから、その内面も、これに見合ったものでなければならない」という、社会的責任感のようなものが備わっているはずだなんてことを、勝手に思っていましたね。
しかし、なんらかの奇跡が起こって、銀幕の向こう側にいる美人女優が自分に愛情を持ってくれたとしたら、その強烈なエモーションはこちらの理性を破壊して、相手に対しての尋常ならざる愛着や美化に転化されたかもしれないと考えることは出来ます。
そう考えると、アイドルたちを、よりファンの身近なところへ届けた秋元康氏のAKB48戦略は、それが疑似であることをファンに承知させた上で、スタンダールの言う結晶化作用を巧みに商品化した見事なものだったと言えます。
老人の目から見れば、昔のアイドルたちに比べれば、遥かに「普通」に見えるいまのアイドルたちは、握手が出来たり、一緒に写真を撮れるくらいにファンにとっては身近な存在になった分、心情的にはより「美化」されているのだと思われます。
そのように考えると、「愛する」行為の裏側には、常に「愛される」希望が潜んでいるということがわかります。
これが、病的にまで進行して、制御が効かなくなった状態がストーカーということになるでしょう。
本書を読み進めていると、「完璧さ」、「光輝く結晶化」、「キラキラと眩しい無数のダイヤモンド」といった、ラブ・ソングの歌詞にでも使われそうな表現が、これでもかというくらい出てきます。
知らず知らずのうちに、恋愛というエモーショナルな体験は、そのまま色とりどりの電飾が輝くディズニーランドのような世界であるかのように説得されてしまいそうです。
おそらくそれは、オペラや絵画に対して造詣が深かったスタンダールが、この体験を通して、恋愛に対してもこれと同質の「幸福感」や「喜び」を感じていたように思えます。
僕の若い頃には、そんな恋愛体験のキラー・フレーズを巧みに織り込んだユーミンのポップス・ナンバーは、ドライブのBGMの定番でしたが、あの頃それを聴いて、束の間の幸福感を感じられたのは、間違いなく、リアル恋愛との相互作用が働いていたことは確実です。
スタンダールは、結晶化の原因を、生理学、感情、思考の三段階に分類して説明しています。
まず、恋愛における結晶化を、スタンダールは自然現象だといいます。つまり、結晶化は人為的に行われるのではなく、恋愛の発生時に自然に起こるというわけです。人間にとっては、もはや生理現象というわけでね。
21世紀の現代では、脳科学も発達してきていて、実際に恋愛モード入ると、人間の脳内では、オキシトシン、セロトニン、ドーパミンといった恋愛系ホルモンが活躍して、快楽や幸福感を感じるようになるということがわかっています。
スタンダールの恋愛論は、科学的にも証明されているわけです。
そして次は、感情のレベル。
相手の長所が多く感じらるほど、喜びも大きくなるり、美化されることで、幸福も増大するのだというわけです。
これは、特に野球選手に顕著だと思っているのですが、ブレーヤーとして成功した選手ほど、その証として、高価な外車、豪邸の他にもう一つ、こぞって美人の奥様を射止めようと躍起になる傾向があるように思います。
いわゆる成功の方程式というやつですね。
もちろん、そこにはそれなりに恋愛も発生しているのでしょうが、「美しい妻」をゲットしたという幸福感と優越感は、男にとっては大きな快感であることは理解できます。
普通に考えて、もしも自分よりさらにスポーツの才能に恵まれたDNAを残そうと思うなら、多少容姿に難はあっても、その代わりに身体能力に恵まれているアスリート女子を嫁に迎えれば、その可能性は飛躍的に上がるような気はしますが、成功した選手たちは、ほとんどその選択をしません。
彼らが選ぶのは、たいていの場合、モデルやタレント、テレビ局の女子アナたち。もちろん、彼女たちが悪いとは言いませんが、そのカップルから生まれた子供は、たとえ容姿は淡麗であっても、ことスポーツの才能において父親に勝るとは、思えません。
もっとも、どんな才能であろうとも、子供が愛の「結晶」であることは、間違いないので、外野がつべこべいうことではありませんが。
さて、スタンダールがもう一つ言うのは、思考のレベルです。
彼は、ナポレオンのイタリア遠征やロシア遠征に参加した経験があります。この経験が、征服という思いを、強く駆り立てていたという節があります。
つまり、恋愛においても、相手を愛を勝ち取ることを、相手を征服することと同義に考えていたような物言いが多々見受けられました。
愛する人を勝ち取ったと思うことは、男の中に多くの快楽物質を湧き上がらせるものだというわけです。
さあ、ここで恋愛を語る上での、大きな命題が一つ。
果たして、この所有意識は、愛情かという問題です。
200年前の恋愛論ですから、いかに自由と平等の国フランスといえども、その目線はかなり男寄りです。
今の世の中であれば、女性からは、きっちりと否定されるところでしょうが、それをスタンダールは、感情ではなく、思考のレベルというわけです。
女性を所有し、征服することが、結晶化を誘発するという理屈は、残念ながら、日本に住む百姓には理解できかねるところです。
あるいは、当時のスタンダールを取り巻く環境への知識が足りていないか、こちらの読解力が及ばないところかもしれません。
但し、恋愛というものが、理性では説明のつかない生理的なところで突然スイッチが入り、その恋愛感情は次第に熱量を上げ、相手からの愛情を勝ち得たところで幸福感を手に入れ、やがてそれを理性レベルでも理解していくものだというプロセスを辿ることは納得できます。
恋愛におけるスタンダールの説明は、いかにもフランスの文豪らしく、知的に装飾され、その要点が、ギュッと凝縮されて表現されています。
まるで一編の詩を読んでいるような、その流麗なリズムに浸って読んでいると、それでなんとなく、恋愛の深淵を理解したつもりになってしまいます。
しかし、丁寧に吟味しながら読み進むと、最終的には恋愛とは、スタンダール流の幸福獲得法の一つであり、それは、多分に美意識のセンサーと連動することで、彼一流の美学に結びついているということがわかってきます。
恋愛をすれば、世の中の見え方が違ってくるということなら、拙い自分の経験からでも、これは大いに納得のいくところ。
恋愛をすることで、世の中が「結晶化」して、美しく見えるのなら、それはそれで大いに楽しむべきでしょう。
それが、例え誤解や錯覚であるとわかっていても、わざわざそれに冷や水をかけるのは野暮というもの。
美しいものを楽しめる感性が、人生を豊かにすることは間違いありません。
しかし、スタンダールは本書で特に触れてはいませんでしたが、恋愛感情には明らかに時限装置が内蔵されています。
どんなに幸福感を味わえる恋愛を体験しても、その賞味期間は残念ながら存在します。
平均的には、その期間はおよそ三年と踏みました。「三年目の浮気」とはよく言ったものです。
ただし、自分の場合はこれがもう少し短いことを実感しています。
しかし、男と女の恋愛においては、この期間が過ぎればそれで終了というわけにはいきません。むしろ、そこからが本番です。
結婚などをしてしまえば尚更のこと。
しかし、世の中には、そんな期間を過ぎても、別れることなく人生を最後まで添い遂げていく夫婦はたくさんいます。
そんなカップルを観察していると、老境に入った夫婦を繋いでいるものは、もはや若い頃に二人を結びつけていたような恋愛感情ではないということがわかります。
おそらくそれは、一緒に過ごす心地よい時間の中で醸成されてきた「なにか」なのでしょう。
スタンダールのような知識人ではありませんでしたが、二人の子供を連れて再婚した我が父親が生前言っていたことを思い出します。
「申し訳ないけど、お母さんに恋愛感情なんて、初めからなかったよ。ただ、一緒にいられたのは、相性が良かっただけ。」
結局、嫁も子供も持たない人生を送ってしまった不肖の息子としては、胸に染み入る言葉でしたが、こちらもこちらで、スタンダールの恋愛論とは違った意味での、恋愛の本質に迫る名言であったかもしれません。
恋愛とは、一種の病気だといった人がいます。
それが証拠に、治ってしまえば、突然我に帰って現実に気がつくというわけです。
どうして、人は恋に落ちるのか。
男女が恋愛をして、結晶化作用にスイッチが入り、お互いの美点ばかりが見えているうちに、結婚させて、子供まで作らせてしまえば、その後で病気から回復しても、そう簡単には元へは戻れない状態になっているはず。
その病気の平均的罹患期間が、3年だとしたら、「恋愛」は、人類がその種を保存させるために周到に計算されたDNAレベルの策略なのかもしれません。
自然のやることに無駄はことは一切ない。
百姓をやっていると、それを実感させられる毎日ですが、恋愛を謳歌してる若者たちが、実はDNAに埋め込まれた巧妙なブログラムによって、計画的に恋愛をさせられているだけなんだとしたら、さすがのスタンダールもビックリでしょう。
目が「赤と黒」かも。
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