赤い河
久しぶりに西部劇を見ました。
ジョン・ウェイン主演の「赤い河」。1948年公開の作品です。
監督は、ハワード・ホークス。
この人と、ジョン・ウェインと言ったら、あの傑作「リオ・ブラボー」がパッと浮かんできます。
さぞや、西部劇の傑作をたくさん撮っている監督かと思いきや、彼の映画全40本のうち、西部劇はわずかに5本でした。
ヘンリー・マンシーニの「子象の行進」が印象的だった「ハタリ!」は、西部劇としてはやや微妙ですが、あれを入れても6本。
意外と少ないんですね。
改めて、この監督のキャリアを、Wiki してみると、その作品の幅広さに感心してしまいました。
ハンフリー・ボガードのハード・ボイルドがあったり、マリリン・モンローのミュージカルがあったり、ケイリー・グラントのソフィスティケイト・コメディがあったりと、実に多彩です。
そして、どの分野の作品でも、ちゃんと一定の評価を受けていルノはご立派。彼のような監督を職人というのでしょう。
ヒッチコックのように、特定分野で才能を発揮する職人監督もいますが、こういうオール・マイティな監督はそういません。
例えば、ウィリアム・ワイラーや、スタンリー・キューブリックといったレジェンド監督となると、どの分野の映画を作っても超一級品を残していますが、ハワード・ホークスの場合は、エンターテイメントに徹する、その器用さが災いして、B級監督のレッテルをはらりれてしまっているようなところもあります。
1975年にアカデミー賞の名誉賞を受賞していますが、実際のところ、現役時代の全キャリアを通じても、アカデミー賞にはほぼ縁のない監督でした。
本作は、ハワード・ホークスにとっては、初めての西部劇です。
ジョン・ウェインとのコンビも、ここから始まります。
物語の柱になるのは、テキサスからミズーリまでの、ロング・ドライブ。
これは、キャトル・ドライブとも言われますが、つまり野生の牛たちを、需要のある町まで移動させることです。
このロング・ドライブを生業にする牛追い人たちを、カウボーイというわけです。
昔見たアメリカ製のテレビ・ドラマで、クリント・イーストウッドが出演していた「ローハイド」も、ロング・ドライブの道中で起こる様々な出来事を描いていました。
安っぽい西部劇ですと、セットを組んでちゃちゃっと撮ったり、ロケ撮影といっても、スタジオ周辺でお手軽に済ませたりしている西部劇も多いのですが、この作品は、きちんと現地撮影していますね。
しかも、何千頭と集められた牛が全て本物。これは、かなり迫力がありました。
牛という動物は、僕も北海道の酪農研修で、実際に触れたことがありますが、結構デリケートで臆病なんですね。
夜中でも、コヨーテの鳴き声とか、ちょっとした刺激音がきっかけで、その中の一頭がビビりだすと、それがたちまち群全体に伝播して、一斉に暴走を始めるんですね。
これが、いわゆるスタンピードというやつですが、いったんこれが始まると、もう手がつけられなくなります。
そうなると、カウボーイたちは、馬に乗って追いかけ、群れがバラけないようにまとめながら、先頭の牛を巧みに誘導して、最後は疲れて走れなくなるまで、同じところをグルグルと回したりするのだそうです。
もちろん、これで命を落とすカウボーイもいるのですが、映画にはこのシーンもきちんと描かれています。
テキサス州から、ミズーリ州までの道中は、ミシシッピ川を越え、オクラホマ州をまるまる縦断するような厳しいルートなのですが、この辺りは、当時のアメリカ合衆国の統治が及んでいないような無法地帯で、コマンチ族や、周囲の州から逃げ込んできた極悪人たちが、当たり前に略奪を繰り返しているようなところでした。
そこを、何千頭(映画の中では9000頭と言っていました)という牛を引き連れた一団が移動していくわけですから、これはもう狙ってくれと言うようなもの。
当然このあたりのドンパチも、映画はきちんと描いてくれています。
そんな西部劇のエンターテイメント要素をぎっしりと詰め込みながらも、本作の物語の柱になっているのは、ジョン・ウェイン演じる牧場主トーマス・ダンソンと、彼が親代わりとなって育てた若者マシュー・ガース(演じるのは、モントゴメリー・クリフト)との世代間葛藤です。
ロング・ドライブの心労から、次第にカウボーイたちに対して辛辣になっていくダンソンに対して、マシューはついに反旗を翻し、彼を追放して、ダンソンの目指したミズーリではなく、鉄道が走っているカンサス州のアビリーンに向かって移動を続けます。
そして、おさまらないダンソンは、近くの町で仲間を募り、マシュー一行を追跡しますが・・・
この映画で、ジョン・ウェインは実年齢よりも上の老け役を演じます。
それまでのジョン・フォード作品でのジョン・ウェインは、「駅馬車」のリンゴ・キッドのような強く逞しいステレオ・タイプのヒーローを演じ続けてきましたが、この作品では、なかなか哀愁漂う、深みのある運技を披露。
ジョン・フォードは、この作品を見て、盟友ハワード・ホークスにこういったそうです。
「あの木偶の坊にこんな演技ができるとは知らなかった。」
これ以降、ジョン・フォードは、自分の作品でも、ジョン・ウェインに次第にシリアスな役も演じさせるようになり、「黄色いリボン」では老人役、「捜索者」でも、これまでの彼のイメージから脱却した複雑な演技を引き出し、映画も高い評価を得るようになります。
そして、アカデミー賞とは縁のなかったジョン・ウェインも、1969年の「勇気ある追跡」では、ついに主演男優賞を獲得するに至るわけです。
対して、モントゴメリー・クリフトの方は、本作がスクリーン・デビューです。
しかし、舞台ではすでにその演技力は評価されていました。
リー・ストラスバーグのアクターズ・スタジオでの演技メソッドも習得している、実力派です。
西部劇はもちろん初めてだったわけですが、ハワード・ホークスの自伝によれば、モンティは、撮影に入る前の一ヶ月程度で、乗馬や、拳銃の扱いなどの一連のカウボーイの基礎技術はマスターして来たそうです。
ハリウッドのスター・システムで輝きを放ってきたジョン・ウェインと、演劇エリートのモンティでは、その演劇スタイルは正反対。
撮影中の2人のムードは、結構険悪だったと言います。
「あの若造じゃ、俺に対抗なんかできないぞ。」
ジョン・ウェインは、ハワード・ホークスにそう言って、食っててかかったそうです。
ラストで、二人は殴り合いの喧嘩をして和解するというシーンあるんですね。
「あいつじゃあ、絶対に俺に遅れを取る。」
確かに、大男のジョン・ウェインとモンティの体格の差は歴然です。
ハワード・ホークスは、これを受けて、そのシーンの撮影のために、四日かがりで、モンティにケンカの指導をしたのだそうです。
その甲斐あって、ラストは、なかなか迫力のあるシーンにはなっていました。
しかし、実はこのラスト、原作と脚本を兼ねていたボーデン・チェイスの考えていたものとは、まったく違うものだったようです。
なんと彼のシナリオは、最後は、マシューがダンソンを殺してしまうというものでした。
そして、ダンソンを丁重に葬ったマシューが、彼の残した牧場を引き継いでいくというラストです。
もしこれが採用されていたら、モンティお得意の内面演技で、それなりにグッとくるラストになったかもしれませんが、ハワード・ホークス(おそらくジョン・ウェインも)はこれを断固として拒否。
公開後も、いろいろ言われたそうですが、彼はキッパリこう言っています。
「あれが、この映画の唯一の結末の付け方だよ。」
ホークス作品の常連俳優に、ウォルター・ブレナンがいます。
総入れ歯の俳優で、なんだか見ているだけでおかしくなってしまう爺さんなのですが、やはりこの映画でもいい味を出しています。
ホークスは、この俳優を使う理由をこう言っています。
「演技力とかそう言う問題じゃない。とにかく、彼は人間がいいんだよ。それがそのまま演技に出てる。安心してカメラを回せる。要するにカメラに愛されてるんだな。」
これを聞くと、あの小津安二郎が、常連俳優だった笠智衆を評して、全く同じことを言っていたのを思い出します。
モンティは、実はゲイなのですが、映画評論家の町山智浩が面白いことを言っていました。
「映画の中で、マシューと、ジョン・アイアランド演じるバランスが、互いの拳銃を交換して、空き缶を撃ち合うシーンがあるけど、あれは同性愛のメタファ。
あのシーンを入れたのは、ハワード・ホークスが、それを知っていて、モンティを揶揄っただけ。」
ちなみに、ジョン・アイアランドは、ホークスの自伝によれば、この映画に出演していた女優のジョアン・ドルーに、撮影期間中しつこくまとわりついていたとのこと。
それがウザいと思ったかどうかはわかりませんが、ホークスは、彼の出演シーンをかなり大幅にカットしてしまったそうです。
西部劇は、戦後から、1960年代初めくらいまでが全盛期で、フロンティア・スピリッツや、勧善懲悪のシンプルさが、アメリカ人の精神性にフィットして、とにかく作れば当たるというのが西部劇でした。
二本立て興行の、添え物として、この頃にはたくさんのB級西部劇も作られましたが、これらの多くは、僕たちの世代は、映画館ではなく、テレビの映画劇場で見ていたように思います。
あの頃は、深夜枠でも、結構オンエアされていました。
ジョン・ウェイン、ゲーリー・クーパー、ヘンリー・フォンダといった面々の西部劇の多くは、映画館よりは、テレビで見ていた記憶です。
子供の頃は、チャンバラごっこ同様に、カウボーイハットを買ってもらって、西部劇ごっこもよくしていたので、かっこいいガンプレイは、それなりに学習していたかもしれません。
大平原を見下ろす丘の上に立って、目を細めて遠くを見つめるジョン・ウェインの凛々しい立ち姿も、それが彼とはわかっていないまま、無意識にコピーしていたような気がします。
もちろん、それを裏の空き地の、土管の上に立ってやっても、絵にはならなかったでしょうが。
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