空気の研究
空気中に含まれる成分が、窒素どれくらい、酸素どれくらい、二酸化炭素どれくらいといったことを研究した本ではありません。
最近では、KY、忖度、同調圧力などと言う言葉が巷に飛び交う時代になりましたが、これらを構成しているのも実は空気。本書は、こちらの方の「空気」の成分について論考したものです。
KYといえば「空気を読めない」もしくは「空気を読め」のスラングということになります。
Wiki してみると、電子掲示板2チャンネルで使われ出したのが最初のようで、その後、女子高生の間で広まり、2007年の「ユーキャン新語・流行語大賞」にエントリーされてから、世間一般で認知されるようになったとのこと。
その頃には、こちらもいい大人になっていましたが、流行語としてのKYは、よく使わせてもらっていた記憶です。
サラリーマンとしては、要らぬトラブルは良しとしないタイプでしたので、何事においても、波風を立たせずに穏便に丸めることに腐心しておりました。
なので、場の空気を読めず、要らぬ一言を言うタイミングを虎視眈々と狙っているような輩は、コミュニケーション能力不足として、心の中では軽蔑しておりました。
忖度という言葉も、ここ数年で、特に政治の場面で注目されるようになりました。
人事権を掌握することにより、官僚たちの保身体質を巧みに操って、大量の官僚たちをイエスマンに改造し、政権に都合のいい忖度をさせまくった同調圧力の正体も、実は空気です。
空気がなければ、もちろん人間は地球上で生存することはできませんが、本書で論考される「空気」も、歴史を振り返れば明確で、日本人の精神形成には多大な影響を与えていると言えます。
女子高生たちが使い始めたKYという言葉が、流行語になる30年間も前の昭和の時代に、大真面目に、この「空気」というものを正体に迫った作家がいました。
山本七平です。
彼は、イザヤ・ベンダサンというベン・ネームで、「日本人とユダヤ人」というベスト・セラーを1970年に発表しています。
本屋の息子としては、この本がしばらくベストセラー・コーナーに平積みされていたのを覚えています。
もちろん、この人が日本人だとは、夢にも思っていませんでした。
本書が発表されたのは、その7年後。1977年のことです。
日本人の行動様式を「空気」といった概念を用いて分析した名著です。
彼は、本書において、この空気のと言うものの正体を「まことに大きな絶対権を持った妖怪」だと、言ってのけました。
戦中派の山本氏は、この「空気」が支配したことにより、一切の合理的判断を失った歴史の場面として、戦艦大和の沖縄特攻を例に挙げています。
サイパンへの特攻は、成功する確率が極めて低いことにより、中止されていたにもかかわらず、それよりもさらに成功確率の低かったはずの沖縄特攻がなぜ決定されたのか。
それが、この決定がなされた会議の場を覆っていた「空気」だったと山本氏は説明します。
戦艦大和は、国民生活の大きな犠牲の上に造られた、日本軍最後の切り札でした。
しかし、戦争の主戦場は、大型戦艦同士が戦う海から、爆撃機中心の空に変わっていました。
莫大な費用をかけて作られた大和は、第二次世界大戦末期には、すでに戦う場所を失っていたわけです。
しかし、このまま大和を戦わせることなく、アメリカ軍に奪われてしまったら、国民世論が黙っていない。
その非難は軍部に集中する。
軍上層部は、これを極度に恐れたわけです。
この空気が、護衛もつけずに、大和を沖縄に特攻させるという、戦術的には全く論理的でない決定をさせたと原因だったと言うわけです。
つまり、通常ではあり得ない作戦を強行させ、その決定の理由を、責任者にすら説明できない状態に落としこむのだから、これはもはや、得体の知れない化け物に、会議参加者全員が憑依されたていたとしか思えないと言うわけです。
日本を代表する知識人である山本氏は、この化け物に支配されることを「臨在感的把握」と名づけました。
それは、対象への一方的な感情移入による自己と対象との一体化を指します。
おっと、なんだか話が難しくなってきました。
本書は、とにかく抽象的な表現が多く、僕のように、書かれていることをいちいち脳内ビジュアル化作業をして読み進めるタイプの読書家には、なかなか難解で、苦戦を強いられました。
今から、50年近く前の著書でもありますので、理解できなかった箇所は読解力及ばずと潔く諦めて、理解できた範囲のみ感想を述べたいと思います。
空気を醸成するファクターとして、次に山本氏があげるものが「感情移入の絶対化」です。
70年代といえば、公害が深刻な社会問題だった時代ですが、イタイイタイ病の原因ともなったカドミウムを取材しにきた記者たちの前で、某氏はカドミウムの金属棒を出したのだそうです。
一堂は当然声を上げて後退り。
某氏はそれを見て、その金属棒を舐めて見せることまでしたと言うのですが、この取材が記事になることはなかったのだそうです。
イタイイタイ病の患者たちの悲惨な姿も取材してきた記者たちは、その金属に対して、すでに「感情移入」が成立していて、科学的説明をされる以前に、そこに「恐ろしい何か」が、臨在すると勝手に感じてしまっていたわけです。
しかし、それでは公平を記すべき新聞記事には成り得ません。
そこで何が起こるか。
つまり、理性を覆い尽くす感情に支配されているにもかかわらず、これを絶対化することで、決して感情移入しているとは認めないと各人が自分に言い聞かせるわけです。
これが、空気の支配の起こるメカニズムだと言うわけです。
もっとわかりやすく言えば、ブラック企業などにありがちな光景ですが、自分のやる気を部下たちに、ひたすら強制すると言うような上司がいます。
先日も、映画「七つの会議」を見たばかりですが、営業ノルマの達成を暴力的なまでにけしかける営業会議などは、まさに感情移入の絶対化に支配されている世界と言わざるを得ないでしょう。
当然そのピリピリした空気は、会社を支配するようになるわけです。
もし、そこで居眠りをしているような社員がいたら・・・
まあ、それを確かめたい方は、映画をご覧になってください。
そして、もう一つ「空気」を作る素材として、筆者が上げているのが「命題の絶対化」です。
人間が口にする言葉には絶対と言える言葉は皆無なのですが、自分の言うことは絶対に正しいと譲らない困った人たちも、多いことは事実。
それが、全く理不尽なことであれば、返す言葉もあるのですが、ここに普遍的な一見反論できなそうな命題を持って来られるとなかなか厄介です。
例えば、「正義は勝つ」とか「不倫はやめろ」「タバコはやめろ」といった類の正当性のある大勢が認めやすい意見は、味方も多いと言うことで、その正当性とは別な勢いを持ち、時に暴力的な「押し付け」になることもあります。
特に今のネット社会では、「正しいことを言っている」自分に対して、リツィートや「いいね」のリアクションがあることが、無類の快感になり、それが相互作用であっという間に広がり、当事者とは無関係な人たちの間で炎上するというニュースが、今や日常茶飯事。
悪いけれど、世の中そんな単純なものではないわけです。
人が口にする命題は全て、たとえ少数ではあっても、対立概念で把握できるものです。
正義が勝てば、確かにカタルシスは得られますが、正義に裏切られている人たちも世の中には少なくありません。正義に背を向けたところで、ひっそりと生きていかざるを得ない人も確実にいるわけです。
喫煙家の多くは、今や、断固たる強い意志がないと続けていけないような状況にはなっていますが、肩身は狭く成りつつも、その至福の一時に、相変わらず、精神の安定を得ている人もいます。
不倫を「文化」といった方もいらっしゃいましたが、大人の事情に対して、少なくとも当事者以外の方が勝手に盛り上がるのは、個人的には、何かのストレスの捌け口にしているとしか思えません。
とにかく、そうした命題の絶対化を許してしまうと、人は、その空気を支配できず、逆に、その空気に支配されて自由を失うことになります。
つい先日読んだ、オルテガの「大衆の反逆」に書いてあった金言を思い出しますね。
「熱狂を疑え」。確かにそうかもしれません。
では、この空気に対抗するすべはないのか。
山本氏は、空気に対抗するのは、水だと言います。
狐につままれたような物言いですが、もちろん、これは飲料水でも、川を流れる水でもありません。
「話に水を差す」と言うときの、あの水です。
盛り上がって、ヒートアップしたディスカッションの際に、そのバトルを現実に引き戻すように、冷や水をかけるような一言というのがあります。
新車情報を持ち寄って、その装備やスペックの話で盛り上がっていると、誰かがポツリというアレです。
「でも、先立つものがねえ。」
山本氏が言う、水とはまさにそれです。
戦争直後「軍部に抵抗した人」として英雄視された多くの人は、実は、勇敢にも当時の「空気」に「水を差すことの出来た人物」であったことに気づかされるわけです。
彼らは、決して平和主義者であったかと言えば、そうではありません。
ただ、竹槍はB29には届かないという至極当たり前な事実を、「一億総玉砕」と意気盛んな終戦前夜の我が国の異様な「空気」の中で、淡々と述べただけの人なんですね。
ですから、「水」とは、言ってみれば「現実」そのものであると言うことが言えます。
しかし、なんと山本氏は、この現実がまた、新たな「空気」を醸成するともいいます。
空気の支配に待ったをかけた水は、その摩擦熱で蒸発し、再び空気になってしまうというわけです。
なにやら、日本社会の論考が、物理的な話になって来ました。
「水を差す」という空気排除の原則は結局のところ、新たな別の「空気」への転移を持たらし、それへの抵抗が、逆に新たな空気支配の正当化を生むという悪循環を持たらすことになるわけです。
ではそうなると、いったいどういうことになるのか。
つまり、結局のところ、空気への抵抗そのものが罪悪視されてしまうということになってくるわけです。
さあ、ややこしい話になってきました。
「空気」と言うものは、日本の組織においては、論理的な結果ではない「怪しげな何か」です。
これに抵抗しようとすると「抗空気罪」に処せられると山本氏は言います。
グレン・ミラー楽団のヒット曲に、「IN THE MOOD」というダンス・ナンバーがありますが、この「ムード」と言われているものの正体が実は「空気」であり、この空気がトルネードになって、周囲の空気を巻き込んでいく状態を、俗に「ブーム」と呼ぶわけです。
「空気」は論理の積み重ねではありませんから、説明することが一切できません。
だから、厄介なわけです。
日本人は知らず知らずのうちに、論理的判断の基準と空気的判断の基準を、ダブルスタンダードで使い分けられることを、山本氏は指摘します。
しかし、現実には、この相反する基準は、明確に分けることは不可能です。
そして、たいていの場合、意思決定の際に優先されるのは、理屈ではなく、「空気」であると言う事実。
これは、大方の日本人の経験則です。
日本は、八百万の神の国です。どんな物質の背後にも、神が存在するというアミニズム的宗教観を伝統的に共有してきた国民です。
従って、物質の背後には、心理的・宗教的・霊的な臨在感があることを、無意識のうちに自覚し、それが現実にも影響を与えるという傾向を体験的に知っています。
山本氏は、こんな例を挙げていました。
ある遺跡の発掘を、日本人とユダヤ人が共同で行ったそうです。
その遺跡からは、夥しい数の人骨や髑髏が出てきました。
これを運び出す作業には、数日を要したそうですが、二日ぐらい経ってくると、日本人の作業員にだけ、吐き気や体調不良などの異変が現れてきたそうです。
同じ環境の中で、同じ作業しているのに、その異変がどうして日本人にだけ現れたのか。
これは、明らかに、日本人だけが、その人骨になんらかの「臨在感」を感じていたからに他なりません。
一神教で、偶像崇拝を禁止していたユダヤ教信者にとっては、人骨はただの物質でしかなかったわけです。
パワーストーンなるものに、特別な力が宿っていると、お年寄りを騙して、高額で売りつけるなんていう商売が世間を騒がせましたが、これなどは日本でしか成立しない悪徳商売なのかもしれません。
こういう日本人に深く根付いているDNAを巧みに悪用した売り方をしている高額な健康商品を売る業者もちょくちょく見かけます。
古代から、自然災害に悩まされてきた日本人には、自然に対する畏怖の念も強く根付いています。
これが、人間の能力では、如何ともし難いものへの畏敬や恐怖心を、より強大なモンスターとして絶対化するという国民性にも繋がっていそうです。
日本人に独得の伝統的発想、心的秩序、事物を絶対化しやすい日本人の精神性が、この空気という怪物を発生させやすい土壌になっていることは否めません。
空気が支配する社会で、幅を利かせているのが状況倫理というものです。
重要な決定に対して、後にその非を問い詰められると、その場にいた責任者はたいていこう答えます。
「いや、あの空気の中では、あの決定は仕方がなかった。」
「あの時の状況を理解しないものに、これ以上説明するつもりはない。」
これが状況倫理です。
そして、これを盾にして、こうなってしまったのは、あの場の決定にあるのではなく、あの決定をせざるを得ない状況にしてたものが負うべきだと言うわけです。
つい、先日読んだばかりの「エルサレムのアイヒマン」が、頭をよぎります。
ユダヤ人600万人の虐殺を指揮したアイヒマンは、裁判の席上、一貫してこれを訴え続けたわけです。
アイヒマンの最大の罪は、自らの思考を停止して、人類史上最大の犯罪に加担したことにありましたが、なぜそんなことなになったのかといえば、ナチス親衛隊という、非常に閉鎖された集団の中で、思考回路が限定されていたと言うことも大きな原因の一つです。
この組織化された大きな虚構の中で、微かにはあったかもしれないアイヒマンの良心は、完全に崩壊していきました。
不完全な人間という生き物は、良くも悪くも、虚構を作り上げて、その中に理想的な真実を求めるという歴史を積み上げてきました。
そして、その失敗から多くのことを学習しながら、21世紀を迎えるわけです。
虚構とは言っても、それは決して悪いことだけではありません。
夢や希望や未来といったものは、現実ではない以上、ある意味で全てが虚構と言えるわけです。
わかりやすい例として、その虚構を上手に利用している例として挙げられるのは、ディズニー・ランドでしょう。
あのテーマ・パークを訪れる人は、オリエント・ランドが提供する、あの夢と虚構の世界を、それと知りつつも楽しむと言うことが、相互の暗黙の了解になっています。
ですから、ジャングル・クルーズのボートに乗りながら、大ががりな仕掛けの裏に目をやって、動かしているエンジンや歯車を見つけようとするような、意地の悪い楽しみ方をするゲストにとっては、居心地の悪い空間かも知れません。
ミッキーやミニーの中に入っているスタッフに声をかけるようなことも、もちろん反則。
虚構であることを承知しつつ、それを前提に楽しむということを、スタッフもゲストも了解しているからこそ、ディズニー・ランドは「夢の王国」であり続けるわけです。
現実に、精神的に人を拘束するのものは「神話」であって、理屈や事実ではないと言うことです。
「演技者は観客のために隠し、観客は演技者のために隠す」で構成される世界は、他にもあります。
演劇ですね。
この状況倫理が設定されていると言う前提のもとで展開される演劇は、劇場と言う閉鎖された世界で、その対象を臨在間的に把握している観客とのあいだに、確実に「空気」を醸成させています。
その非日常と虚構の世界は、観客に影響を与え、感動させる「力」になっていることは間違いないでしょう。
では、この閉鎖された空間を、劇場やテーマ・パークから飛び出して、もっとマクロ的に見ていくとどう言うことになるのか。
つまり、その閉鎖集団の塊を、日本全体として俯瞰して見るわけです。
そうすると、国際社会の動向をひたすら捻じ曲げられて、都合の悪い真実からは意図的に目を背けさせられ、為政者の都合のいい「空気」の中で踊らされて、いつの間にか、世界の先進国の座から、引きずり下ろされそうになっていることに気がつかない、閉鎖された日本の姿が見えてきます。
最終章において、山本氏は、日本人が「空気の支配」から逃れるためのスキルとして、根本主義を上げています。
根本主義といえば、ファンダメンタリズムと言うことで、Wiki して見れば「原理主義」と同義ですが、個人的には、どうもこの言葉からは、イスラム原理主義とか、キリスト原理主義とか、あまり印象の良くないイメージを連想してしまって、正直なかなか素直に受け入れられない部分もありました。
まあ、仰々しくは捉えずに「原点回帰」くらいに考えておきましょう。
山本氏は、この根本主義に対してこう言っています。
「根本主義を無視すれば、我々は常に、同じ状態の繰り返しかもしれない。それを防ごうとするなら、我々の合理性に分かちがたく密着しているひとつの神政制的要素を探求し、それの制御装置を自ら創出する以外にない。」
「神政制」と言えば、つまり宗教と政治が一体となった政治形態を言うわけですが、つまりは、どこかで我々に染み込んでいるアミニズム的体質に対し、きちんと合理的に考えて、その暴走にブレーキをかける仕組みを、個人だけでなく、社会として持っていないと、それを悪用しようという輩の思うがままにされ、国全体も、たちまち得体の知れない空気に支配されてしまうと警告しているわけです。
人は未来には触れられず、予想される未来は、言葉や想像でしかイメージできません。
我々は、この不確定な未来を、実感を持って把握することはできないわけです。
本書で再三にわたって述べられている臨在感的把握に基づく行為は、その行為が回り回って未来の自分にどういう影響を与えるのかを判定させず、今の社会にも、その判定能力を失わせています。
おそらく、将来のどこかで、「この場の空気」「 今の時代の空気」は、一種の不可抗力的拘束と説明されているのかもしれません。
それをしたり顔でやられる背後では、全てが「空気」のせいにされ、個人の責任は免除されているはずです。
であれば、その空気を作っているのは、誰かという話になります。
本書の結論は、どうやらそのあたりにあるような気がします。
戦後のGHQによる日本解体作業の中で、日本人のDNAに染み込んでいる儒教的精神的体系はNGとされ、当時の学生たちは教科書に墨を塗りながら、その表面的な部分は、ほぼ綺麗に一掃されました
残っているのは、もはや空気だけでしょう。
しかし、人は新しい何かを把握しようとする時、今まで自己を拘束していたものを逆に自分で拘束出来るようになり、それによって良くも悪くも、新しいフェーズへと一歩進むことができるわけです。
実は、その時に人は空気の構造からも脱却していると言えます。
人々が、知らず知らずのうちに、自己を拘束している得体の知れない「空気」から自由になるためには、自分を取り巻く環境や常識の外からも、自分の居場所をチェックして見る必要がありそうです。
そして、その空気に押し流されそうになっている時は、なんとか、正気を保つ踏ん張りが必要かもしれません。
流されていれば、楽は楽で、ある意味では快感ではありますが。
もしも、あなたが周囲からKYと呼ばれているとしたら、もっと胸を張っていいのかもしれません。
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