屋根裏の散歩者
さて、「怪盗ルパン」「名探偵ホームズ」と再読してきましたので、次は江戸川乱歩と参りましょう。
小学校高学年から、読み始めた推理小説ですが、江戸川乱歩作品を手に取り始めたのは、中学生になってからでしたね。
愛読していたポプラ社の児童書からも、子供向けに翻訳されたシリーズは出ていたのですが、この頃になればやはり「子供騙し」は嫌だとスルーして、文庫版の方を読み漁りました。
江戸川乱歩の淫美で怪しげな世界は、「子供向け」では、バッサリとやられていると踏んだからです。
中学生ともなれば、男子ならば誰でもエロに目覚める年頃。
その辺りの開花は、誰よりも早かったという自負のある超マセガキでしたから、小林少年率いる「少年探偵団」シリーズでは、その辺りの欲求は満足できないと判断したわけです。
読書では、この辺りからいよいよ「大人の世界」へと踏み込んでいったという記憶ですね。
江戸川乱歩の生み出したヒーロー探偵といえば、なんと言っても明智小五郎。
明智小五郎というと、そのビジュアルを決定づけたのは、今は亡き天知茂ということになりそうです。
苦み走った悪役顔の色男でしたね。ドラマ「非情のライセンス」の会田刑事役で人気を決定付けた俳優です。眉間の皺が魅力的な渋い俳優でした。
その彼のもう一方の当たり役となったのが、「江戸川乱歩の美女シリーズ」における明智小五郎役。
このシリーズで、天知茂のダンディなビジュアルが、その後の明智小五郎のイメージを決定付けた感があるのですが、原作を読む限り、本来の明智小五郎のイメージは、むしろ横溝正史の生み出したヒーロー探偵「金田一耕助」に近いもの。
というよりも、もじゃもじゃ頭をボリボリとかきむしり、兵児帯によれよれ着物と袴というスタイルで、颯爽と「D坂の殺人事件」で初登場した明智小五郎の方が、金田一よりもデビューは先なわけですから、そのビジュアルこそが、後の金田一のビジュアルに多大な影響を与えたという方が正解です。
明智小五郎は、元来は、天知茂が演じた颯爽とした都会派のモダンな刑事ではないわけです。
むしろ、チェスタトンが創作したブラウン神父や、刑事コロンボのカテゴリーに属する、イケテナイけれど、頭はキレる探偵代表といった方が、本来のイメージには近いものがあるように思います。
さて、江戸川乱歩作品を読むようになった直接のきっかけが、テレビ・ドラマであったことは白状しておきましょう。
江戸川乱歩のテレビ・シリーズは、天知茂が登場した「美女」シリーズより以前に、東京12チャンネル(現在の「テレ東」)で放映された「明智小五郎」シリーズがありました。
土曜の夜の8時からでしたね。
ウィキペディアで確認したら、1970年の4月からの放送になっていましたので、当時の僕は12歳。
ドンピシャリです。
このシリーズで、江戸川乱歩作品の有名どころは、ほぼ映像化してくれていましたので、この鑑賞体験が、まずは僕の江戸川乱歩知識のベースになりましたね。
江戸川乱歩という人は、もちろん本格的な推理小説を得意とした作家ですが、怪奇小説や恐怖小説も書いていて、これらを原作にした漫画も結構ありました。
記憶にあるところでは、週間少年キングに連載されていた「江戸川乱歩恐怖シリーズ」。
当時の人気漫画家、横山光輝、桑田次郎、古賀新一、石川球太が競作していて、少年誌であるにもかかわらず、内容はかなりエログロしていました。
このテイストが、そろそろ「子供もの」から卒業しかけていた少年には偉く刺激的で、毎週欠かさず読んでいた記憶があります。
僕らの世代は、なんと言っても「ウルトラマン」「ウルトラセブン」にガツンとやられていましたから、その影に隠れてしまった感はあるのですが、これらが放送されていた日曜夜7時のいわゆる「タケダ・アワー」枠で、その後を引き続いて放映されていた「怪奇大作戦」も、僕の好きなシリーズでした。
もちろん正統派子供番組路線は継承していましたが、そのテイストはかなりアダルトで、エロこそありませんでしたが、グロ路線にはかなり寄っていました。
ちょうど、第二次怪獣ブームの発火点ともなった「ウルトラQ」シリーズのテイストにも通じるものがあって、「ウルトラQ」を怪獣なしで作ったら、こんなドラマになったかもと思ったりしたものでした。
「ウルトラQ」シリーズには、初回放送ではオンエアされなかった最終回「あけてくれ‼︎」という怪獣の登場しない幻の第28話がありました。
これは再放送時に見ましたが、これをカラーにしたら、後に放送された「怪奇大作戦」でそのまま使える物語だなと思ったものです。
おっと脱線。
話を、江戸川乱歩に戻しましょう。
というわけで、漫画やテレビ・シリーズで、徐々に熟成させてきた怪奇趣味が、怪盗ルパンや名探偵ホームズなどの本格ミステリーの洗礼を受けて、中学時代の思春期に一挙に膨れ上がったエロへの妄想と絡まり合ってなだれ込んでいったのが、江戸川乱歩の小説の世界だったと自分的には分析する次第。
そして、この読書路線は、やがて、横溝正史のおどろおどろしい恐怖ミステリーへと続き、ハイティーンになるにつれ、松本清張や森村誠一といった、社会派本格ミステリーへと移行していったというわけです。
江戸川乱歩作品には、デビュー作の暗号謎解きミステリー「二銭銅貨」、どんでん返しの鮮やかな「何者」、作者がじっくりと心理学の文献を読み込んでミステリーに構築した「心理試験」といった本格的な推理小説もありますが、当時の僕にとってなんとも魅力的だったのは、エログロ要素をふんだんに盛り込んだ恐ろしくもエロチックな怪奇小説的味わいの作品群です。
明智小五郎が颯爽とデビューした「D坂の殺人事件」の、あまりにもアダルトな結末。
その発想が、あまりにもエロチックな「人間椅子」。
傷痍軍人である夫との生活の中で、その妻の心の闇を、過激に抉り出した「芋虫」などなど。
その設定が、際どければ際どいほど、こちらも作品の魅力に否応なしに引き摺り込まれていくわけです。
当時、我が父親は、本家本元のエドガー・アラン・ポーなどを愛読していましてたし、母親は楳図かずおの恐怖漫画の愛読者でした。
一歳違いの弟も、密かに寝床の下にSM雑誌を忍ばせていたのは知っていましたから、こちらの路線へ傾倒するDNAが、我が家系には脈々と流れていることは薄々と感じていた次第。
僕が、今まで見てきた映画も、エロい恐怖ホラー系が圧倒的比率で多いことは、当然といえば当然かもしれません。
僕が江戸川乱歩にハマっていた時期を考慮すると、これはいわゆる「中二病」の影響であったと言えるかもしれません。
人に言えない心の闇をミステリーに仕立てる江戸川乱歩ワールドは、まさに読者にとっては淫靡な愉しみ。
そんなわけで、ルパン、ホームズ、アガサ・クリスティあたりなら、堂々とファンであることを公言できたのですが、江戸川乱歩の愛読者であることは、周囲の友人にも、カミングアウト出来ないでいました。
しかし、こうやって改めて少年期の読書嗜好の時間軸を整理してみると、後に生涯を通じる道楽となっていく映画鑑賞のルーツとして、多感な頃に接した江戸川乱歩ワールドがあったことは疑いの余地がなさそうです。
さて、そんなこんなで今回再読したのは、「屋根裏の散歩者」。
江戸川乱歩の代表作の一つで、これまでにも数々の映像化作品が作られています。
これは、とにかくこのタイトルがメチャメチャにキャッチィでした。
このタイトルだけで、もうこちらの妄想は膨れ上がりまくりです。
夜な夜な天井を徘徊して、その天井の隙間や節穴から、他人のプライバシーを覗き見る快感。
そして、その愉悦の中で、ふと脳裏によぎった完全犯罪への誘惑。
作者はこれを、主人公の郷田三郎目線で、その実行までを克明に描いていきます。
いわゆる倒叙型ミステリーの体裁で話は進み、郷田の友人明智小五郎の登場で、完全犯罪が徐々に暴かれていくという展開。
その過程で描かれていく、アパートの住民たちのプライバシーが、ある意味ではこの作品の一番美味しいところなわけですが、これは今回再読した限りでは、思ったほどではなかったなという印象でした。
おそらくこの辺りは、後に映像化した作品の方が、「ここが見せ所」とばかりに、大いに刺激的な映像を新たに創作して盛り上げてきたということがあったかもしれません。
そういえば、この作品は、1971年に日活ロマンポルノでも、宮下順子、石橋蓮司主演で映画化されてますね。これは、後に大学生になってから、どこかの二番館名画座で見ています。
まだ日活もこの頃は多少の製作費は捻出できた頃なので、撮影のために、ちゃんと大正風俗をセットで再現して、原作に忠実な映画作りをしていました。
しかし、このプロットは、多少シナリオや設定を現在風にアレンジすれば、ちょっと気の利いたAV作品にも流用できそうです。
とにかく、作品のプロット時代が。メチャクチャにエロい。
還暦越えはしたと言えども、まだまだスケベ心は健全に活動していますので、そんな作品がもしも作られれば、FANZAで、ポチッとしたいところです。
そういえば、アルフレッド・ヒッチコックの代表作でもある「裏窓」なども、考えてみると、この他人のプライバシーを覗き見るという、人間の本能的な快感を、実に巧妙にくすぐることで、観客の心を上手に掴んだ成功作品だったといえる気がします。
覗き見る方が、変態男ではなく、あの美しいグレース・ケリーであれば、その罪悪感も消え失せるという映画のマジックでしょう。
そうそう。これだけは語っておきましょう。
本作の主人公の郷田三郎が、自分のアパートの部屋の押し入れに寝るようになったのが、「屋根裏散歩」の導入部でした。
実は、ちょうどこの小説を読んでいた時期、僕自身の寝床も押し入れだったんですね。
当時の我が家は、三階建の駅前のビルで、一階は書店でした。
そして、二階と三階は住居。
住んでいたのは、その書店で働く、我が両親、叔父夫婦、住み込みの店員、それに祖母と弟二人という、かなりの大所帯でした。
部屋が豊富にあったわけではないので、当時の僕の寝床は、叔父夫婦と同室で、そこを箪笥などの家具で仕切っただけのスペース。寝床は、まさに押入だったわけです。
郷田三郎は、その上の部分で、天井を眼前にして寝ていて、やがて屋根裏に旅立つわけですが、僕の場合は、寝相が悪く、就寝中に落ちる恐れが十分にあったので、下の部分を寝床にしていました。
何せ鉄筋コンクリートが剥き出しになっているような荒造りのビルでしたので、淫靡な屋根裏への道は開かれていない代わりに、家具で仕切られただけのお隣の叔父夫婦のプライベートは、まるまる筒抜けでした。
当時の叔父夫婦は、まだ子供はいない二十代のラブラブカップル。
もちろん、あちらとしても、その環境は理解していたので、僕がいるタイミングでエッチを始めるようなことはありませんでしたが、それでもかなり生々しい年頃カップルのプライベートな会話は、いやでも聞こえてくるわけです。
お二人とも、なかなかのイケメンと美人のカップルでしたので、ときには色恋沙汰が激化して、大喧嘩になることもしばしば。
そんな時は、階下から、それを聞きつけた祖母が2人を嗜めに上がってくるわけですが、そんな修羅場を箪笥の隙間から覗くことは日常茶飯事でした。
カッカした2人を諌めて祖母がまた階下に降りていく時、たまに声をかけられることもありました。
「起きてるのかい❓」
そんな状況で寝られるわけがないわけですが、まさか返事をするわけにもいきません。
今にして思えば、相当わざとらしく、イビキ声のボリュームを上げて、「聞いてない。見てない。」アピールをしたことはよく覚えています。
ある時などは、叔父夫婦のこんな会話が聞こえて来たりもしました。
「あいつ、隣でこっちの様子を聞いて、おばあちゃんにチクってるんだぜ。問いただしてみるか。」
「ダメよ。やめて。それでまた、おばあちゃんに怒られるから。」
そんなときには、布団にくるまりながら、ドキドキして、額には冷や汗。
トイレに行きたくてもいけないような中で、ひたすら朝まで悶々としていたものです。
こんな環境が、子供の精神衛生上良くないことは、もちろん両親たちもわかっていたようで、いろいろ相談の結果、叔父夫婦は晴れて、近くのアパートに引っ越していき、その部屋は丸々僕にあてがわれることになりました。
もちろん、そうなれば、もう押し入れの寝床に寝る必要もなくなるわけなのですが、不思議なことに、寝床としては、僕はその押し入れをしばらくはそのまま使用しておりました。
どうも、押し入れのその閉所的プライベート感覚が決して嫌ではなかったようで、その本屋の実家を出るまでは、「いちいち布団の出し入れをしなくて済む」という理由だけで、住居スペースの各部屋の押し入れを転々と寝床にしていた記憶があります。
今でもそうですが、たまに旅行をして、ホテルのベッドや、旅館の布団で寝るときに、なんだか落ち着かずに熟睡できないことが多いのですが、どうやらこれには少年期のこの原体験が大いに影響している可能性が大です。
そう考えてみると、自分と「屋根裏の散歩者」郷田三郎は、まさに紙一重だという気がしてきます。
本作の主人公は、絶対に発覚することのない完全犯罪の手段を発見したことにより、初めて殺意を抱きます。
本作は1926年に発表された小説ですが、まさに一世紀が過ぎた今、改めて本作を読み返してみて、ちょっと自分なりに考えさせられることが一つ。
それはこんなことです。
「どうも人間というやつは、これは出来るとなると、異様にやりたがる生き物。そして、結果やり過ぎる。」
たかが短編殺人ミステリーから、それは深読みしすぎだろうという気もしますが、最近の色々な社会問題を思うにつけ、ちょっとそんなことが脳裏を巡ります。
核の問題然り、原発問題然り、統一教会問題然り。
これら全ての根底には、この人間という悲しき生き物のDNAに潜む怪しき性が、脈々と息づいているような気がしてくるわけです。
誰も手にしたことのない特別なものを手に入れた時こそ、試されるのが人間のモラル。
そんなドツボに落ちる以前に、意志薄弱で、何事も流されがちだという自覚のある諸氏は、まずはせめて屋根裏などには這い上がろうというスケベ心をはもたれることのなき様ご忠告するのみ。
こちらも、齢を重ねて、老境に達している身ですので、このエロい短編ミステリーから、少々深いところまで掘り下げてみた次第。
押し入れは、あくまでも布団や生活品を収納するスペースとして存在するもので、少なくとも、屋根裏への入口としてや、人が寝るためには作られていませんよということです。
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