実は最近、縄文時代にはまっています。
もっぱら、「縄文」をキーワード検索して、たっぷりとある歴史系YouTuberのみなさんの動画を、畑仕事をしながら片っ端から聴いているのですが、時には近くの図書館に行って文献を読んだりもしています。
なぜそんなことをするようになったかというと、どうもここ最近の歴史の知見が、僕が学校で習ったこととはかなり違っていることにうっすらと気がついたんですね。
まあ、学生時代には、世界史の勉強などろくにしなかったので、大きなことも言えませんが、間違った認識のままでいるのも癪なので、遅ればせながらちょいと学び直しておこうかという気になったわけです。
では、縄文時代って、いつの頃の、どこらあたりの地域の話ということなのですが、恥ずかしながら、ここらあたりの認識からして、かなり怪しかったので、とりあえずそこからハッキリとさせておきましょう。
まずは、最近すっかりと仲良くなったトリオ・ザ・AI(ChatGPT、Bing、Bard)に、ここらあたりを簡単にまとめてもらいます。
こんな話になります。
縄文時代は、今から約1万6500年前から約2300年前まで続いた、日本列島における先史時代の文化。
北東アジアの東北地方で始まり、その後、日本列島全域に広がっていきました。
アフリカから渡来してきたホモサピエンスは、約7万年前にユーラシア大陸に到達しました。
その後、約5万年前にシベリアに到達し、約3万年前に日本列島に到達したと考えられており、縄文人は、これらのホモサピエンスの子孫です。
具体的な渡来ルートは、シベリアからベーリング海峡を渡り、北海道から日本列島に到達したという説が有力です。
その後、海岸線沿いに南下し、日本列島全域に拡散していきました。
縄文時代は、日本列島に定住生活が始まり、土器や弓矢などの道具が使用されるようになった時代です。
また、縄文人は、貝塚や竪穴住居などの独自の文化を築きました。
というわけで、縄文時代とは実は日本史のくくりで、その授業の冒頭で語られることになるというわけです。
彼らは狩猟採集民族でしたが、時代の後半では簡易な農業技術も獲得し、定住生活をするようになります。
縄文時代への見識が飛躍的に明らかになったのは、三内丸山遺跡の発掘が大きいと言われています。
1992年に青森県青森市で発見されたものです。
調査の結果、縄文時代前期中頃から中期末葉(紀元前約3900年~紀元前約2200年)の大規模な集落跡であることが明らかになりました。
発掘された遺構からは、竪穴建物跡、掘立柱建物跡、土坑墓、盛土、道路、大型建物などの計画的な配置が確認され、縄文人が高度な社会組織を築いていたことが示されました。
また、大量の土器や石器、貴重な木製品、骨角製品などの出土から、縄文人が豊かな生活を営んでいたことも明らかになりました。
縄文人達は、かなり創造的な文化を持っていたんですね。
そして、これは今では有名な話になっているようですが、縄文時代の遺跡からは、石斧や石槍などの武器が発見されないという事実が明らかになっています。
これは、間違いなく、学校では教わっていません。
縄文人は、武器を必要としない暮らしを、1万年以上も続けていたということです。
そしてもうひとつ。
彼らは、男女ともに、自分たちが食べていくために費やす労働時間は、1日4〜5時間程度であったということ。
つまり余暇の時間がふんだんにあったらしいのです。
それだけふんだんな食料を賄う豊かな自然環境に、彼らが恵まれていたということ。
これは大きかったでしょう。
そして、その時間を利用して、彼らは土器や石器、木製品、骨角製品などの高度な技術を駆使した、さまざまな生活用品や装飾品を作りました。
縄文土器や縄文式土器は、日本を代表する文化遺産であり、その多様な形状や文様は、縄文時代の人々の豊かな創造性を示しています。
また、縄文人は、土偶や祭祀遺跡など、宗教的な儀礼や信仰に関する遺跡も残しています。
これは同時代の世界中のどのホモサピエンスを調べてもありえない事実でした。
さて、ではこの縄文時代の視野をちょっと広げて、世界史的見地からも深堀りしてみることにします。
縄文時代を考察するための科学的アプローチとして登場したのがDNA分析です。
この調査が開始されてから、縄文時代のどんなことが新たに分かったのか。
ではこの辺りも、「トリオ・ザ・AI」に聴いてみることにします。
こんなことですね。
縄文人のミトコンドリアDNAのグループは、東南アジアの狩猟採集民に近いことが明らかになりました。
これは、縄文人の祖先が、東南アジアからユーラシア大陸を経て、日本列島に渡来した可能性を示しています。
縄文時代の日本列島付近では、その1万数千年の間に、温暖化と寒冷化が繰り返し起きています。
それまでの定説であった、縄文人が寒い北方から渡ってきたというのは、防寒具を持たなかった彼らにとってはかなり厳しかったのではないかと思ってしまいます。
それよりは、まだ大陸と地続きであった、東南アジアから、海洋技術を駆使して北上してきたと考える方が自然であるような気がします。
もちろん、北方でも遺跡は発見されていますから、従来の北方より南下説も事実ではあります。
現在の日本人のDNAを調べてみても、北方の人と沖縄の人たちに、比較的縄文人の濃度が高いとされています。
しかし、そうやって日本に渡来してきた縄文人達ですが、日本列島の自然は、彼らに優しくはありませんでした。
九州南部の鬼界カルデラの大噴火、北海道洞爺湖のカルデラの噴火は、一瞬で日本列島の自然環境を一変させました。
これにより、多くの縄文人達が命を落とし、あるいは、生存のために移動を余儀なくされたわけです。
そこに繰り返された気候変動が追い打ちをかけます。
それだけ過酷な自然災害の多い日本で暮らした縄文人達は、争うことよりも、自然と互いに助け合うという文化を共有するようになったのでしょう。
その結果、高度な文化的技術や農業技術を持った当時の縄文人達が、大陸に渡り、逆にユーラシア大陸の人類に縄文人のDNAを広げて行ったという可能性が否定出来なくなってきます。
その証拠に、日本では年代に沿った遺跡が日本全国で発見され、縄文時代の文化の進歩が科学的に証明されているのに対し、大陸には過去の遺跡がまったく発見されていません。
朝鮮では、人類の痕跡が全く無かった時代さえもあることがわかっています。
つまり縄文人達は、大陸からやってきたのではなく、実は日本から大陸に移動していったと考えることも可能なわけです。
では、日本を脱出してユーラシア大陸に広がっていった縄文人達の痕跡は、どの辺りまで残っているのか。
これも、DNA分析の結果判明したことですが、実は日本から遠く離れたチベット地域で、縄文人達のDNAが色濃く検出されたのだそうです。
日本とチベットの間には、ご存知のように広大なアジア地域が存在します。
しかしここには、それほどの縄文人DNAは残っていないそうです。
どうしてか。
それは、12世紀から13世紀にかけて、ユーラシア大陸を席巻したモンゴル帝国の存在が大きいと言われています。
彼らは、その圧倒的な騎馬戦力で、アジア大陸を征服していきました。
その内実はまさに蹂躙そのもの。
抵抗する男達は皆殺しにし、残った女達を次々と犯していきました。
その結果、なにが起こったのか。
それはDNAの置換です。
男性のDNAの痕跡は、Y染色体に残っていきます。
彼らの勢力拡大に伴い、アジア人達のDNAは、この時代にほとんどモンゴル人達のDNAと置き換わっていったわけです。
アジア地域には、ジンギス・ハーンの遺伝子を持つ人たちが1600万人もいるというのですから、恐ろしい話です。
そのモンゴル人達の魔の手から逃れることが出来たのが、大陸からは海を隔てていた日本と、同じくヒマラヤ山脈によってアジアから隔てられていたチベットです。
そして、その先にあるのは、世界最古の文明がおこったというシュメールがあるイラク南部です。
シュメール文明には、縄文文明との共通点もいくつか指摘されています。
縄文文化が、人類最古の文明にも影響を与えていたと想像すると、ちょっとワクワクします。
さて、話をまた古代に戻しましょう。
もちろん、そんな自然の脅威の中で、日本列島に残った縄文人たちも、もちろんいます。
あるいは、アジア大陸中に広がった縄文人達が、ふたたびふるさと日本を目指して、戻って行ったこともあるかもしれません。
そんな縄文時代の末期。今から2300年ほど前です。
大陸から、弥生人達がやってきました。
この時期は、中国で青銅器時代から鉄器時代に移行する時期と重なっており、農耕や冶金などの技術をもった人々が日本列島に渡来したと考えられています。
弥生人の渡来は、日本列島の文化に大きな影響を与えました。
稲作、水田耕作、鉄器の使用、集落の形成など、弥生時代の特徴的な文化は、渡来人によってもたらされたと考えられています。
さて、新しい文化を持って渡来してきた弥生人達を、当時の日本の原住民であった縄文人達はどう迎えたか。
縄文時代をいろいろと勉強してみて、実はここがちょっとシビれるところなのですが、この「移民」に対して、彼らは決して暴力で追い払うことをせず、その文化ごとまるっと受け入れているんですね。
もちろん弥生人達も、縄文人に対して、好戦的な態度はとりません。
征服でも、侵略でもない、平和的な異文化の同化が始まるわけです。
おそらくは、稲作水田技術を持った弥生人達は、川沿いの平地に定住し、縄文人達は、狩猟採集に適した山間に集落を作って、彼らは日本列島を上手に棲み分けていったのだと思います。
そして、時には互いの収穫品を時には交換したりしながら、彼らはのどかに交流していくわけです。
どこかの野蛮な民族のような血生臭い争いごとを、彼らは選択しません。
縄文人と弥生人は、そこから何千年もかけて、優しく混血してゆき、古墳時代の頃には、縄文人でも弥生人でもない「日本人」へと変化していくわけです。
その証拠に、日本人のDNAには、縄文人と弥生人のDNAがバランスよく交じり合っていることがわかっています。
決して置き換わっているわけではありません。
それだけではなく、日本には、中東系の人たちやユダヤ人たちも、渡来してきている可能性があることがDNAの分析からわかっています。
どうやら、古代における日本という国は、世界史上稀に見る多民族移民国家としての稀有な成功例だったということですね。
移民にも冷たく、大国アメリカの傘の下で、しきりと戦争をしたがる国へ変貌しようとしている、現在の自民党政権に、このあたりは大いに勉強してもらいたいところです。
その後鎌倉時代の武士達が頑張ってくれたおかげで、日本人のDNAは、12世紀のアジア諸国のようにモンゴル人達によって蹂躙されるとはありませんでした。
そのおかげで、現代の我々のDNAの中には、争いごとを好まず、和をもって尊しとした縄文人達の平和愛好DNAが、色濃く残っているという理屈です。
なんとも、ありがたい話ではありませんか。
さて、さきほどチラリと述べたチベット人達の話を少々。
今から4年ほど前に、僕はチベットのブータン王国を訪れています。
ちょうど定年退職をして、残りの人生は、野菜作りと決めたタイミングで行ってきました。
ブータンという国は、観光客に対しては、団体個人を問わずに、必ずガイドとドライバーがペアになって、滞在期間中帯同するというのが、国が決めたルールになっています。
ティンプーのパロ空港で、ブータン人のお二人にはじめて会った時、僕はあまりに日本人らしくて驚いたことを覚えています。
韓国や中国にも行ったことはありましたが、同じアジア人でも、韓国人や中国人と日本人の違いはなんとなくわかるものです。
しかし、そのニュアンスの違いが、ブータン人には、ほとんど感じられませんでした。
滞在中、たくさんのブータン人と知り合いになりましたが、その誰もがまるで日本人のようです。
もちろん、ガイド以外は日本語はしゃべれません。
しかし、それでも、日本から遠く離れたブータンにやってきたのに、まるで日本に帰ってきたような安心感を覚えたのは不思議でした。
しかし、今回縄文人時代を勉強したことで、その謎が見事に氷解しました。
なるほど、彼らと日本人は、DNAレベルで、深く繋がっていたというわけです。
一週間ほどの滞在でしたが、その期間だけで、彼らが如何に平和を愛し、自分たちの幸福について真剣に考えている国民なのかは十分に伝わってきました。
まるで、国民全体が一つの家族のような彼らの平和マインドは、まさに縄文人達のDNAがベースになっていたというわけです。
僕は知らず知らずのうちに、縄文人のDNAに導かれるように、ブータンを旅行していたといたというわけです。
そうそう、ブータン人と僕のDNAの明らかな共通点が、もう一つありましたので報告しておきます。
やつら、かなりスケベです!
どうも、自分の中には、体制に対して、むやみやたらに反抗的な態度を取るという習性があるのは自覚するところです。
確かに勤めていた会社でも、上層部にはどこかしらいつも批判的でした。
定年退職をしてからは、今度はその批判の矛先は日本の政治に対して、向かうことしきり。
突っ込みどころが後を絶たないことを言いことに、YouTube動画で学習しては、ブログで突っつきまくっていました。
しかしよくよく考えてみれば、日本人の自分が、日本や日本人をこき下ろすことで溜飲をさげても、なんら生産的ではないということに今更ながら気がつきます。
それよりは、日本人の長所を見つけては褒め称える方がはるかに前向きというものです。
あるんですよ。ありますって。
日本の歴史をちゃんと勉強して、世界と比較していけばいくらでもありそうじゃありませんか。
どうも、日本人はどこか、自分たちを自虐的に卑下している方が、スマートでクールだと思い込んでいる節があるように思います。
日本に移住している外国人達のYouTube動画を見るのが好きなのですが、彼らのほとんどが、自国の文化より、日本の文化を絶賛してくれています。
例え、そういう動画の方が再生回数が稼げるのだとしても、やはり日本人としてはうれしいもの。
ひょっとしたら、日本人は、自分たちが思っている以上に、本当は「よく出来た」国民なのかもしれません。
それに気がついていないのは、実は日本人だけではないのか。
だとしたら、ちょっと悲しいですね。
こうやって、素人がちょいと歴史に触れてみただけでも、日本人の素晴らしさを実感できる史実は学習できます。
少なくとも、我々のご先祖様の縄文人達は、なかなか愛すべき人たちだったということは、世界史的に見ても、人類史的に見ても明らか。
なんだか嬉しくなってしまいました。
木の実や貝や魚を煮炊きするための実用の土器に、まるで必要のない縄目の模様をつけるアートワークに余暇の時間を費やした多くの縄文人たち。
少なくとも、稲作を始めて定住をするようになった弥生人達の土器には模様はありません。デザインはシンプルそのもの。
作った米を保存し、やがて村落を作るようになった彼らは、その暮らしを守るために、何を始めたか。
それは戦争ですね。弥生時代以降の遺跡からは、次第に多くの武器が出土されるようになります。
戦争は、実は弥生時代の農業革命から始まったということ。それは、歴史が見事に証明しています。
しかし、今回は縄文人のDNAのお話ということで、それはまた別の機会に。
コメント