「ちょっと釣りに行ってくる。」
昭和24年の5月、家族にそう言い残して、釣竿を持ってフラリと家を出たきり、その男は3年間も家に戻りませんでした。
男の名前は根本博。
終戦時に、内モンゴルに駐留していた彼は、陸軍中将として中蒙軍の司令官を勤めていました。
復員後、都下鶴川の自宅に戻り、恩給でささやかに暮らしていた彼は、GHQ占領下とはいえ、仮にも平和になった日本からいったい忽然とどこへ消えたのか。
根本は、内モンゴル時代に、彼の部下だった通訳の吉村是二と合流し、九州へ向かっていました。
そして、宮崎県延岡市の沿岸から、台湾へ向けて密航しようとしていたのです。
なぜ彼は、台湾へ向かおうとしたのか。
この年、人民解放軍を率いて、蒋介石率いる国府軍に勝利した中国共産党の毛沢東は、世界に向けて中華人民共和国の建国を宣言していました。
しかし、蒋介石はこの時まだ完全に負けていたわけではなく、ジリジリと戦線を後退しながらも、海を渡った台湾を本拠地にして人民開放軍と対峙していました。
国府軍陥落はもう時間の問題となめきっていた毛沢東は、建国宣言をすませると、台湾を望む対岸の福建省に、続々と軍隊を集結させていました。
大陸から、わずか2キロの距離にある金門島とアモイを台湾防衛のための砦とする国府軍は、ここに軍隊を配置して、人民開放軍を迎え撃つ準備をしていました。
この中国情勢をニュースで聞いていた根本は、いても立ってもいられず、占領軍の目を盗んで、台湾に密航をする腹を決めたのです。
根本と吉村の密航に尽力したのは、台湾を支援する立場だった明石元長。
この人の父親は、まだ日本占領下にあった時代の台湾の初代総統明石元二郎です。
ではなぜ、根本はそれほどまでして、台湾に向かわなければいけなかったのか。
実は彼には、蒋介石に大きな恩義がありました。
それはどんなものであったか。
「トリオ・ザ・AI」にざっくりまとめてもらいましょう。
根本博が蒋介石に大きな恩義を感じることとなったのは、終戦直後の内モンゴルで、在留邦人や北支那方面軍の帰還を支援してくれたことによるものです。
終戦しているにもかかわらず、内モンゴルはソ連軍に侵攻されていました。
1945年8月15日、天皇陛下の玉音放送は、もちろん台湾のラジオからも放送されました。
しかし、この時ラジオ放送局にいた根本中将は、玉音放送が終わると同時に、マイクを取り、在留邦人に向かってこう宣言しました。
「日本は戦争に負けました。しかし我々中蒙軍の兵士及び兵器はいまだ健在です。
我々は、皆さん全員が無事に内地へ戻られるまで、武装解除はいたしません。
皆さんの命は、責任を持って、日本陸軍がお守りいたしますので、どうかご安心ください。」
彼は、武装解除の命令に背くことの全責任は自分が取ると部下たちに言い切って、ソ連軍に立ち向かいました。
この中蒙軍の戦いに加勢をしてくれたのが蒋介石の国府軍でした。
根本は、国府軍と協力して、襲いかかってくるソ連軍を撃退します。
蒋介石は、内モンゴルから、天津までの在留邦人の移動にも、軍用列車を、可能な限り提供してくれました。
この恩義を、根本中将は終生深く心に刻むことになります。
根本は、それから1年後、すべての在留邦人と兵士を日本に帰国させたことを見届けた後、最後の引き揚げ船で日本に戻ります。
彼は、蒋介石にはこのようなメッセージを残しています。
「この恩義に報いるめに、もしもこの身が必要とされるのであれば、私はいつでも馳せ参じます。」
自分が台湾に向かうことで、関係者たちに迷惑がかかることを恐れた根本は、隠密裏にことをすすめました。
家族にも行き先をを告げなかったのはそのためです。
しかし占領軍の目を盗んで、台湾に密航することは至難の技でした。
根本らは、最短ルートで台湾へ向かいましたが、通常なら三日程度で到着するところを、様々なトラブルに遭遇したために2週間も要しています。
彼らが漂流してたどり着いたのは、台湾北端の基隆。
まるで浮浪者のような風体の根本たちは、密航者として投獄されてしまいます。
根本は、自分は元日本陸軍中将根本博で、蒋介石閣下を支援するために、日本からやってきたということを懸命に説明します。
この怪しい密航者が、自分を根本博と言っていることを聞きつけた国府軍上層部の幹部が根本に会いに来ました。
かつて、ソ連軍と一緒に戦った経験のあったこの幹部は、この浮浪者があの根本中将と知って大感激。
湯恩伯の仲介を得て、根本はついに蒋介石との再会を果たします。
終戦時の約束通り、国府軍絶体絶命の報を知って、日本から身一つで馳せ参じた根本からの支援を、蒋介石は満面の笑顔で受け入れます。
アメリカからの援助も打ち切られて、八方塞がりだった蒋介石にとっては、たとえ身一つでも、歴戦のキャリアをもつ根本の軍人としての能力は、どれほどの武器にも勝る援軍でした。
根本は、林保源の中国名をもらい、第五軍管区司令官の湯恩伯付きの顧問として、まずは廈門島へ視察に向かいます。
根本の指揮官としての能力を熟知している湯恩伯は、彼を「顧問閣下」と呼び、最大限の敬意をはらって礼遇しました。
廈門島は、当時はアモイと呼ばれていました。
そして、金門島までを視察し終えると、根本は湯恩伯にこう進言します。
「アモイを放棄し、金門島を拠点として戦いましょう。金門島を人民開放軍と戦うための要塞にすれば勝機はあります。」
根本により、これをベースにした防衛計画が綿密に練られます。
さあ、いよいよ決戦の火蓋が切って落とされました。
人民開放軍の攻撃は、アモイが先か。金門島が先か。
攻撃はアモイから始まりました。
兵力において、国府軍を圧倒する人民開放軍は、アモイに上陸すると、一気に進軍してきました。
もちろん、根本が放棄すると決めたアモイにも、国府軍は師団を配備していました。
アモイ防衛の指揮官は劉汝明。
国府軍司令部は、劉汝明に徹底抗戦を指示しますが、敵の兵力に恐れをなしたこの指揮官は、司令部のいうことを無視して、勝手に白旗を上げてしまいます。
ななな・・なんと。
国府軍危うし。
しかし、根本はこうなることはすでに読んでいました。
かつてのソ連軍との攻防で、この指揮官劉汝明には、これと同じ前科があったことを根本は記憶していました。
それを織り込み済みで、根本はアモイに劉汝明の兵軍を配備することを進言し、金門島防御のために、国府軍の主力部隊を温存していたのです。
勢いのついた人民開放軍は、地元のジャンク船をかき集めて、金門島上陸作戦を敢行します。
根本は、金門島の地形を精査した上で、人民開放軍の上陸場所を特定していました。
そして、彼は前線の部隊に指示をして、あえて人民開放軍全軍を上陸させてしまいます。
海岸の塹壕にひそかに隠れていた国府軍兵士は、敵軍全兵士が船を降り切るタイミングを待っていました。
彼らはそれを確認すると、事前に海岸に隠しておいた重油を浴びせ、一気に火を放ちます。
ジャンク船は、木造帆船ですのでたちまち炎上。
上陸した人民開放軍は退路を断たれてしまいます。
そしてこれにより、福建省側からの援軍も海を渡る術をなくすことになります。
もちろんすべては、根本の立案した計画でした。
退却することもできなくなった人民開放軍の目の色は変わります。
金門島北西の古寧頭村を舞台にして、国府軍との人民開放軍の陸戦が始まりました。
国府軍が人民開放軍を包囲する形になると、彼らは、なりふり構わず古寧頭村の北山集落の住民たちを盾にして戦い始めました。
これを知った根本は考えます。
そして、湯恩伯に向かってこう進言します。
「村人たちを犠牲にしてまで、相手軍を殲滅しても、それは閣下にとってはなんの武功にもなりません。
閣下の戦歴に傷がつくだけです。
ここは包囲を解いて、八路軍に退路を与えましょう。
彼らを海岸におびき出して、そこで一気に勝負をつけましょう。」
湯恩伯は、根本のこの進言を素直に受け入れます。
日没となり、砲撃が止むと、人民開放軍は夜陰にまみれて、海岸線へと移動を始めます。
根本の読みはここでもドンピシャリでした。
この時、指示を受けた国府軍の水軍が静かに、金門島の海岸線を北上していました。
そして夜が明けると、海岸線に逃げてきた人民開放軍は、陸と海からの国府軍の一斉攻撃を受け、海岸に阿鼻叫喚が響き渡ります。
これにより丸二昼夜続いた金門島の決戦は、兵力ではるかに劣る国府軍の勝利に終わりました。
この戦いにおける人民解放軍の死者はおよそ10000人。捕虜になったものはおよそ3000人。
これに対して、国府軍の死者は1200人ほどでした。
この戦いに勝利したことにより、台湾本島からおよそ180キロ離れ、中国大陸とはわずか2キロしか離れていない金門島は、いまでも台湾の領土になっていることはご承知の通りです。
ちなみに、人民解放軍に制圧された隣のアモイは、当然のことながら、中国の領土になってしまいました。
中国は本日現在でも、台湾を独立国家としては認めていませんが、この戦い破れて以来、武力による台湾支配は実行されていません。
台湾は、今でも世界有数の親日国です。
1999年に台湾で起きた大地震の際にも、日本の自衛隊の救援部隊は、世界に先駆けて真っ先に台湾に駆けつけ、昼夜なく人命救助を行い、台湾の人たちを感動させています。
そして、2011年の東日本大震災の際には、その小さな台湾から、世界中のどの大国よりも多い支援金が、被災地に届けられました。
根本博中将のことは、ネットのYouTube動画て知りました。
以来、この名前をキーワードにして、いろいろと調べた結果が本ブログとなっています。
国も政治も関係なく、ただ受けた恩義に報いるためだけに、国境を超えて命をかけて戦いに赴いた日本人がいたというだけで、同じ日本人としてはなんだか誇らしい気持ちになれます。
こういう人物が教科書にのることはほぼないのでしょうが、歴史上には、なにやら清濁併せ持つ怪しき偉人たちが多い中で、これだけストレートに人として尊敬できる人物はそうはいません。
1966年に74歳で亡くなる根本ですが、彼は後にこの台湾でのことを手記として残しています。
もちろん蒋介石の回顧録にも、根本のことはしっかりと記述されていました。
根本は、自分のこの3年間の台湾での活動の記録を、公式的には一切残さないようにと蒋介石に依頼しています。
このことで、日本で迷惑がかかる人が出ることを避けたかったのでしょう。
その代わりに、蒋介石は、根本に国宝級の対の花瓶を持たせます。
「これをそれぞれに持つことで、あなたと私は常に一緒にいることが出来る。」
蒋介石が台湾に3組だけあるこの花瓶を進呈したのは、イギリスのエリザベス女王、昭和天皇、そしてもう一人が、命をかけて台湾独立に身を投じてくれた根本でした。
(この花瓶は、後に台湾に返却されています。)
そして、この花瓶に描かれていた絵柄は、なんと太公望が釣り糸を垂れているものでした。
はたして蒋介石は、根本が日本を出てくる時の様子を知っていたのでしょうか。
根本は、それから3年経った1952年に飛行機で羽田空港に戻ってきています。
照れ臭そうに飛行機のタラップから降りてくる写真が残っているのですが、これは是非探して見てみてください。おもわずニンマリです。
なんとその手には、彼が鶴川の自宅を出て行く際に持っていた釣竿が、しっかりと握られているのですから。
家族には、何の説明もせずに黙って自宅に戻って来た根本博。
彼は、台湾に渡る際に、私財の全てを渡台費用につぎ込んでいます。
そんな根本に対し、夫人は一切の愚痴もこぼさなかったといいます。
「これだけ長い間、釣りをされていたのでしたら、さぞや大きな魚が釣れたのではないですか?」
全てを飲み込んだ夫人のこの言葉に、根本がどのような返事をしたか。
それはもう想像するだけでも、楽しくなります。
釣竿を手にして帰国してきた根本博も粋なら、黙って根本を迎えたこの奥様もまた粋ではないですか。
とにかく僕が声を大にして言いたいことは一つだけです。
「根本中将。あんた、ちょっとカッコ良すぎ!
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