元旦から能登半島を襲った大地震は、日本中の正月ムードを一掃してしまいました。
「あけましておめでとう」などとは、とても言えないような空気が日本中を覆った正月となってしまいました。
色々と候補にあがっていた読書リストはあったのですが、とりあえずそれは後回し。
今回、あらためまして、日本の自然災害を扱った文学作品はないものかと、AIに聞いてみました。
わが国はご承知の通り、世界で有数の自然災害大国です。
いにしえの日本人たちは、有史以前から、この自然災害と戦ってきたという歴史を持っています。
そんなわけで日本文学の古典には、自然災害を題材にしたものも数多くあります。
記録に残っている最も古い書物は、「日本書紀」です。
白鳳時代に起きた白鳳地震(684年)や、平安時代に起きた貞観地震(869年)などの被害を詳細に記録しています。
白鳳地震は、今で言えば、南海トラフ地震。貞観地震は三陸沖地震と言うことになりますね。
古典の中でこの分野の名作と言えば、鴨長明の「方丈記」があります。
平安時代末期、京都で起きた文治地震(1185年)。
その他、火災、竜巻などの災害が克明に記録してあり、自然災害の前では、無力な人間の無常観を語った秀逸な随筆です。
この他にも、日本各地で起こる地震や津波の歴史は、様々な書物に記録として残っています。
この名著はすでに読了。
そんな中で、今回AIに拾ってきてもらった作品の中で、心に止まったのは「稲むら火」という短い逸話でした。
これを書いたのは、中井常蔵という和歌山県の学校の教師。明治時代の人です。
実はこの逸話には、下敷きとなる小説がありました。
それを書いたのは、あの小泉八雲です。英名ラフカディオ・ハーン。
「怪談」を書いた明治時代の文筆家ですね。
小説のタイトルは「A LIVING GOD」という短編で、これは英語で書かれています。
西洋と日本との「神」の考え方の違いについての内容になっていますが、ベースになっているストーリーは、1854年の安政南海地震津波において、自分の田にある稲むらに火をつけて村人を高台に誘導し、命を救った紀州広村の浜口五兵衛の物語です。
この短編小説に感動した中井常蔵は、1934年、文部省が国語教科書の教材を公募したのを受け、「A Living God」を翻訳した上で、教科書向けに物語をアレンジして「燃ゆる稲むら」として、この公募に応募しました。
そして1937年、中井の作品は「稲むらの火」と改題されて国定教科書に採用され、1947年まで小学校の国語教科書に掲載されることになります。
物語は以下の通り。
村の高台で米を作っている五兵衛は大きな揺れを感じて外に飛び出た。
すると波打ち際が、どんどん後退していき、岩肌があらわになっている様子が目に飛び込んできた。
「これは、津波が来るに違いない。」
五兵衛はそう直感。
高台から村を見下ろすと、人々は祭りの真っ最中だ。
この危険を早く知らせなければ、村の人たちが津波に飲み込まれると思った五兵衛は、躊躇せずに、収穫したばかりの田んぼの稲むらに松明で火をつけて回る。
祭りに興じていた人々は、高台で燃えている稲むらを察知。
五兵衛の家が火事になっていると勘違いした村人たちは、一斉に高台に向かい始める。
ほとんどの村人が高台に移動したその直後、村は大津波に飲み込まれた。
その光景を見ながら、村人たちは五兵衛の前に跪いてしまった。
この物語には、地震津波災害に直面したときの心得がわかりやすく描かれています。
まず、情報は素早く正確に伝える。
海岸近くに住む人は、速やかに高台に移動する。
人命は全てに優先する。
教科書に載ったものは、10ページ程度の短い教材ですので、ぜひ読んでみてください。
ネットで探せばすぐに見つかります。
さて、この物語の元になった小泉八雲の小説には、さらにモデルとなった実話があるんですね。
小説の主人公のモデルになったのは、浜口梧陵と言う実在の人物です。
浜口は広村(現在の広川町)で分家濱口七右衛門の長男として生まれ、12歳の時に本家の養子となり、銚子での家業であるヤマサ醤油の事業を継ぎました。
安政元年(1854年)、梧陵が広村に帰郷していた時、突如大地震が発生し、紀伊半島一帯を大津波が襲いました。
世にいう安政南海地震です。
梧陵は、収穫したばかりの稲むら(稲束を積み重ねたもの)に火を放ち、この火を目印に村人を誘導して、安全な場所に避難させました。
教科書に載った物語とは違っている部分もあるのですが、浜口の犠牲的精神そのものは変わりません。
小泉八雲も、この実話を知って、その感動を小説という形で表したわけです。
ただ、実在の濱口梧陵の偉業は、これだけでは終わらないのがスゴイところ。
彼は家や畑を全て流された村人たちを失意の底から救うために、私財を投じて、堤防を作る事業を村で立ち上げ、職をなくしてしまった村人たちを雇用します。
そして高さ4メートルの堤防を、およそ5年の歳月をかけて完成させ、この堤防は、1944年の昭和南海地震の大津波の被害を最低限に食い止めることになります。
濱口梧陵は、故郷の復興のために身を粉にして働き、地元産業の復興にも尽力。
偉人とは、まさに、こういう人のことをいうのだという見本のような人物です。
現在、和歌山県のこの地には濱口梧陵記念館が立ち、津波防災センターとして機能しています。
ちなみに、「世界津波の日」になっている11月5日は、安政南海地震が発生したまさにその日。
この地を、津波の被害から救った濱口梧陵の逸話にちなんで、国連総会決議で決定したものです。
その安政南海地震から170年。
2024年の元旦に、能登半島地震は発生しました。
1月12日現在、その被害の全容は未だに見えていません。
テレビでも、YouTubeでも、連日、地震被害の報道は続いています。
まず1番最初に思うことは、こういう時になんといっても頼りになるはずの自衛隊の投入がいかにも少ない感じがすること。
震災発生初動三日間が、人命救助の観点からは、最も大切であることは、72時間ルールとして、僕も知っています。
気になってちょっと調べてみたら、直近の熊本地震との比較では、陸上自衛隊の現地派遣人数は、五日目時点で、5分の1程度でした。
余震の恐れもある地震発生直後の時点で、陸路からのアクセスは当然厳しいわけです。
そんな中で、被災地でもっともアクティブに活動できるのは、隊員輸送用の大型ヘリコプターを多く持つ自衛隊です。
これは全く僕の素人感覚なのですが、阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本地震といった大災害を経験している自衛隊は、地震災害においては初動がどれだけ大事かを肝に命じている筈。
最初の三日間を不眠不休で、災害支援に当たらなければ、多くの救える命が救えなくなることも、彼らは十分に承知しているわけです。
もちろん、自衛隊にはがっちりとした組織規律がありますから、自分たちの意思だけでは動けません。
彼らに、その指示を出せるのは、わが国では、総理大臣と防衛大臣だけです。
しかし、元旦にこの地震発生の報を聞いて、翌日派遣された自衛隊は1000人のみ。熊本地震の半分です。
三日目になると、熊本地震の時には、派遣人数が一気に14000人になっていますが、能登半島地震では2000人程度。
大型ヘリが被災地に飛んで、孤立している住民たちを救済しているという映像は、僕が見る限り、お目にかかれませんでした。
防衛大臣が記者会見で、陸路からのアクセスが改善されれば、派遣人数は徐々に増やしていくなんて言ってましたが、「えっ!?」と声が出そうになりました。
いやいや、陸路からのアクセスが出来ない初動だからこそ、自衛隊のヘリコプターが、最大限投入されるべきではないのかと思ってしまうわけです。
というか、こういう時に活躍しなくて、あのヘリコプターをいつ活躍させるのかという話です。
災害時の救助活動も、自衛隊の重要な任務であることは、自衛隊法にも明記されています。
東日本大震災の時と比べても、政府の対応には、明らかな温度差が感じられます。
いろいろな事情もあるのだとは思いますが、個人的には、ここで存在価値を発揮できなければ、自衛隊に対する評価は上がるわけがないと思ってしまうわけです。
岸田首相にしても同じこと。
これだけ、支持率が下がって、四面楚歌になっている状況であるなら、この能登地震発生は、不謹慎な言い方を承知で言えば、彼にとっては、支持率アップの千載一遇のチャンスであったはず。
自衛隊に被災地派遣の指示をできる権限を持つ岸田首相が、その号令をかけ、その救助映像がテレビで放映されれば、間違いなく支持率は上がったでしょう。
それくらいの「いちかぱちか」は、今の彼の状況を考えれば、絶対にありでした。
しかし、彼は結局、官僚たちに丸め込まれてしまったのは、記者会見を見ていても歴然。
ただ、メモを読み上げるだけで、安全な総理官邸で白々しく防災服を着ている、見え透いたパフォーマンスだけが際立ってしまいました。
さらに、能登半島地震の対応に対する政府の本気度を疑うことがありましたね。
その動画を見て、愕然としてしまいました。
それは1月7日に行われた、陸上自衛隊第一空挺団が、千葉県の習志野演習場で、実施した新年恒例の「降下訓練始め」です。
この訓練は、同団が毎年1月に行うもので、今年は8カ国から、約60人の隊員も参加しました。
訓練は、他国の侵攻を受けた離島を奪還するという想定で行われ、第1空挺団が落下傘で降下し、他国の部隊は大型ヘリで演習場に移動し、共同で奪還作戦を展開するという内容。
この訓練は、自衛隊の空挺部隊の能力を示すとともに、多国籍部隊との連携を強化する目的で行われました。
空挺輸送機から、降下する落下傘部隊が、見事にピンポイントの位置に着地するのは見事なものでした。
このお披露目のために、隊員たちは、かなりの訓練を積み重ねたのでしょう。
しかし、この訓練の成果をお披露目する現場を、彼らは完全に間違えました。
この技術があれば、能登半島地震の被災地においては、人命救助活動に相当な貢献ができたのは明らかだからです。
つまり、わが国の政府は、大災害に見舞われて、生死の境をさまよっている人たちが多数いるという状況の中で、「訓練のお披露目」を優先したわけです。
もちろん、木原防衛大臣の言うように、訓練の意義もそれなりにあるのでしょう。
でも、おいおい今それを言っている場合かよという話です。
このスキルが、習志野の訓練場ではなく、能登半島の被災地で「お披露目」されたら、どれだけ現地の人たちも、心強かったかと思うわけです。
ここでも、「一度決めたことは覆さない」というわが国の政治特有の病気が出てしまいましたね。
被災地のインタビューで、「私たちは見捨てられている」と悲痛な声で訴えていたお年寄りがいました。
政府の被災地救済の本気度は、現地にも明らかに伝わっている気がします。
今現在、救援を待ち望んでいる人たちの目には、「稲むらの火」は、見えていないのでしょう。
世界中でもっとも自然災害が過酷な環境の中で、日本人は唯一無二の文化を築いてきました。
災害時における日本人被災者たちの民度の高さは、今や世界中が認めるところです。
それは数々の災害を経験してきた日本人が、争わずに、お互いが助け合うことで、紡いできたという長い歴史があるからに他なりません。
稲むらに松明の火をかざした和歌山県の偉人、濱口梧陵は、震災復興事業に向ける決意を以下のように簡潔に述べています。
「百世の安堵を図れ」
嘆かわしいことながら、岸田総理には、百世どころか、我が国の未来などには、一切関心がないように見えます。
彼の関心ごとは、今の総理大臣ポストに、いかに長くしがみつくか。
それのみなのでしょう。
果たして、今の政治家たちの中に、将来偉人として敬われたり、教科書に載るような人物がいるのかと思うと、ため息ひとつ。どの顔も完全に役不足です。
南海トラフ地震が来る確率は、今後30年で8割程度だと学者たちは予言しています。
北海道利尻島地震、阪神淡路大震災、新潟中越地震、東日本大震災、熊本地震。
日本に住んでいる以上、どこにいても、地震のリスクはあると言うことを、われわれは地震が起こるたびに身に染みて思います。
僕は関東在住ですが、これだけ日本のあちらこちらで、大震災が起こってくると、いやでも脳裏をよぎるのは、そろそろ自分の番かもしれないという不安ですね。
大震災のリアルな被害映像は、いまや被災者から直接送られてくる時代になりました。
いやでも、これが、明日は我が身と思えば、身につまされてしまいます。
おそらく、被災した現場には、ニュースにはならなくとも、被災者を救い出し、支えている多くの名もなき「浜口梧陵」がいるのかもしれません。
もしもその日が来た時には、「稲むらの火」が、この目に飛び込んでくるのを祈るのみ。
その時の総理大臣には、是非とも火をつけるための松明を持っていて欲しいものです。
その火さえ灯れば、日本人の多くは、行儀よく、整然と並んで、助け合いながら、そこに向かっていくはずですから。
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