サスペンスミステリーの巨匠アルフレッドヒッチコックが確かこんなこと言っていました。
「映画の原作小説は、短編くらいの長さがちょうど良い。」
なるほど、天下のサスペンスの巨匠がそういうなら、間違いはないでしょう。
そこで、彼の映画作品で、短編小説が原作になっているものを調べてみました。
「短編」とWiki に明記してあったのは以下の三作。
「鳥」ダフニ・デュ・モーリエ。原題『The Birds』
「裏窓」コーネル・ウールリッチ。原題『It Had to Be Murder』
「舞台恐怖症」セルウィン・ジェプソン。原題『Man Running』
中編になると以下の通り。
「間違えられた男」マクスウェル・アンダーソン。原題『The True Story of Christopher Emmanuel Balestrero』
「ハリーの災難」ジャック・トレバー・ストーリー。原題『The Trouble of Harry』
「サイコ」ロバート・ブロック。原題『Psycho』
「めまい」ボワロー・ナルスジャック。原題『死者の中から』
ページ数がわからなくて、調べきれないものも多かったのですが、いずれにしても、長編に属するものはそれほど多くなかったですね。
映画の尺は、90分から120分ということになりますから、短編が原作ですと、映画の中で、映像として膨らませる部分が多くなります。
つまり「原作プラス」になるわけです。
逆に、長編になると、原作をその尺に収めるには、端折らないといけません。
登場人物を減らしたり、プロットをそっくりカットしたり、時にはラストも変えないと映画の尺には収まりません。
つまり「原作マイナス」です。
あるいは、原作の特定のプロットだけを引き出して、それを膨らませて、映像的アレンジをしていくということもあるでしょう。
原作小説のファンを映画化作品でも納得させようとするなら、やはり長編からマイナスして再構築するよりは、短編にプラスして膨らませる方が、クレームは少なそうですし、シンパシーは得られそうです。
脚本家の三谷幸喜氏が、アガサ・ミステリーの傑作長編ミステリー「オリエント急行殺人事件」のドラマ版の脚本についてこう言っていました。
「長編小説の原作を忠実に脚色しようとすると、3時間程度の尺がちょうどよい。」
これは、ある意味で、原作小説の映画化をチェックするときの、いい指標になるとは思います。
例えば、何百ページもあるような大長編小説が原作である場合、それを映画の2時間枠に収めようとしたら、物語は相当端折っているか、どこかをバッサリとカットしているか、さまなくば、美味しいとこどりをして、物語を再構成しているかということになります。
但し、これはあくまでも、「原作に忠実」に映画化するという場合の話です。
どんなに大ヒットした小説だからといって、それを忠実に映画化すれば、原作通りのいい映画になるのかといったら、まずそうはなりません。
やはり、小説には小説の表現、映画には映画の表現というものがあって、「面白さ」の評価の尺度は当然大きく変わってきてしまいます。
映像化作品が、原作を超えるか、越えないかは、偏に監督の映像化のセンス次第と言っても過言ではないかもしれません。
映画が原作を越えたかどうかは、あくまでま鑑賞した人の主観にゆだねられるものですが、個人的感覚でいえば、映像化の成功作品と言われるものの多くは、たいてい原作小説に新たな命を吹き込んだものが多くなると思っています。
原作に忠実に映画化した作品も多くありますが、そうやって作ってしまうと、映画としての評価はそれほど高くはならないという気はしています。
いずれにしても、原作小説とその映画化作品は、個人的には、作品としては全く別のモノだと思っています。
原作と映画化作品をどうしても紐づけて考えるなら、話は単純で、映画化作品が、原作よりも面白ければ、映画が原作をどれだけいじろうと文句を言う観客はいない。(原作者はそうはいかないかもしれませんが)
反対に、映画化作品がつまらなければ、それは原作の改悪だとブーブー文句を言われる。
簡潔に言えばそういうことです。
ですから、概ね大ヒットした映画というのは、原作はあるにせよ、それはあくまでアイデア程度に原案として借りて、後はそれを思い切り映画的に脚色して膨らませた作品が多くなると思っています。
それとは反対に、大ヒット小説や歴史的文学作品を原作にしてしまうと、敵がエンターテイメントとして一定の評価がある分、映画の方が分が悪くなるというのが僕の見解です。
さて、そんなわけで、松本清張です。
日本の小説家の中で、彼ほど、その作品が映像化されている作家はいないでしょう。
映像化作品の原作小説は、短編、中編、長編とスタイルは様々。
社会派ミステリーという分野を開拓した、松本清張の功績は、いまさら言うまでもありません。
映画、ドラマを含め、彼の小説を原作とした映像化作品は全作とは言いませんが、個人的にはかなり見ています。
松本清張の映像化作品を、今回Wiki で確認したのですが、ひとつ気が付いたことがありました。
それは、個人的に印象に残っている映画化作品の原作が、ほぼ短編だったんですね。
以下の通りです。
「天城越え」「鬼畜」「張込み」「顔」
いずれも、原作世界を、映画的に膨らませた「原作プラス」の作品になっているということに気が付きました。
もちろん、大ヒットした「砂の器」のように、大長編小説を、映画的に再構築して、原作を越える大成功に導いた例もあります。
しかし、松本清張の長編小説を映画化した作品の多くは、基本的に大味で、非常に映画的に作られている原作のプロットを利用しているだけという作品が多い気がしています。
自分の小説の映像化には、こだわりのあった松本清張は、「霧プロダクション」を作って、それを自分なりにコントロールしようとしました。
「霧プロ」名義で作られた作品は、「わるいやつら」「疑惑」「天城越え」「迷走地図」「彩り河」。
このあたりは、原作も読み、映画もすべて見ていますが、長編小説原作の映画に限っては、小説の「読み応え」の方が勝っていたと思います。
松本清張おそるべし。
そんなわけで、本作です。
「黒の画集 あるサラリーマンの証言」は、松本清張の「黒の画集」という短編集の一篇「証言」を原作に、橋本忍が脚色しています。
1960年度の作品で、この時期の東宝なら、宝田明、佐原健司、池辺良、三船敏郎といったスター俳優がいたわけなのですが、本作の主演はなんと小林桂樹。
この人は、この時代、森繁久彌の「社長」シリーズの謹厳実直な秘書役で、コメディ俳優としての地位を確立していた人です。
個人的には、「男はつらいよ葛飾立志編」で彼が演じたカタブツの大学教授役は好きでしたね。
そんな喜劇よりの俳優だった彼が、本作では一転して、シリアス演技を披露。
自分の不倫が露呈するのを恐れたためについた嘘により、自滅していく、繊維メーカーの課長役を好演しています。
いや、むしろ、当時の東宝で、この役を「主演」として演じられた俳優は、小林桂樹以外あり得なかったと言う気もしています。
原作が短編ということもあり、かねてから思っていた「松本清張短編原作傑作説」が頭にあったので、この作品は、機会があれば見てみたかった一本でした。
DVDは持っていなかったのですが、Amazon プライムの「東宝チャンネル」に入ったら、この作品をVODのラインアップに発見。さっそく鑑賞した次第。
結論から言ってしまえば、やはり面白かったですね。
映画は、ミステリーというよりも、小林桂樹のキャラクターに寄せるような演出になっていましたが、小市民の彼が、次第に殺人事件に引きずり込まれていくスリルは上手に描けていました。
映画の冒頭では、自分の日常を、小林桂樹がモノローグで語るシーンがあるのですが、これは本作が、本格ミステリーであることを考えると、やらなくてもよかった気がします。
映像だけで十分に、彼のキャラクターは説明出来ていましたね。
小林桂樹演じる課長の愛人を演じるのが原知佐子。
この人どっかで見たことあるなあと思ってWiki してみたら思い出しました。
大映ドラマの「赤い」シリーズで、山口百恵を徹底的にいびり倒していたオバサンがこの人でした。実相寺昭雄監督の奥さんでもあります。
課長を取り調べる刑事役に西村晃。その上司に平田昭彦。
映画の後半で、課長に絡んでくる若者の一人が児玉清。この人は、後に「パネルクイズアタック25」の司会を長く務めた人。
もう一人の若者は、江原達怡。
この人は加山雄三の「若大将シリーズ」で、若大将の所属するスポーツ部のマネージャーをずっとやっていた人。
この若者から麻雀の借金を払えと脅すチンピラが、後に「刑事コロンボ」の吹替を担当した小池朝雄。
その他、チラッと出てくる果物屋の店員役で西条康彦。おそらく知らない人が多いでしょう。
この人は、「ウルトラQ」で、万城目パイロットの相棒「一平くん」を演じていた人。
初期ウルトラ・シリーズに出演していた俳優は、子供心に脳裏に焼き付いているようで、こういう映画でその顔を発見すると、おもわずうれしくなってしまいます。
自分の不倫が発覚することを恐れた課長が、保身のために偽証をすることになるというところまでは、本作を見る前からの事前知識としてわかっていました。
しかし残念ながら、本作の原作短編小説は読んでいません。
その偽証をしたことで、課長に降りかかる災難と、皮肉な運命。
ここまでは判っていましたので、今回は自分なりのストーリー展開予想と、実際の名手橋本忍の脚本進行を比べながら鑑賞するという楽しみ方になりました。
結論から言いますと、さすがは、黒澤作品と松本清張作品で鍛えられた脚本家。
当たり前ではありますが、こちらの予想を裏切って、見事に映画を締めてくれました。
こちらが予想すら出来なかった展開でしたので、ここは素直に脱帽です。
ただ一点だけ、終わってみてから「あれ?」と思ったことがありました。
そもそも物語の発端になった殺人事件の方が未解決のままなんですね。
たぶん、この殺人事件の犯人が、ラストで判明して大円団だとばかり思って鑑賞していたので、その点に釈然としない感が残りました。
なるほど。
しかし、事件の謎が解けて大円団というのは、考えてみれば、通常の推理小説のセオリー。
松本清張は、単なる推理作家ではなく、頭に「社会派」がつくミステリー作家です。
事件の謎よりも優先されるのは、偽証することで身を守ったつもりの課長に、運命の天罰がくだること。
そうしなければ、わざわざ主演に、東宝のスター俳優ではなく、小林桂樹を配した意味がなくなるわけです。
それは理解するべきでしょう。
これはちょっと、原作小説も読んでみたくなりましたね。
松本清張の短編集「黒の画集」からは、他にも二作品が映画化されています。
読んでみる価値はありそうです。
近頃何かと、オリジナル原作と、映像化作品問題が世の中を騒がせています。
原作小説と、映像化作品の質を比べるという意味では、松本清張作品は、昭和の時代からその王道。
ついでに「短編原作映画化傑作」説も、しかと精査してみたいと思います。
図書館にあるかなあ。松本清張の文庫本。
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