図書館で見つけた本です。
挿絵に一目惚れしてしまいました。
これを描いているのが、井上安治という明治時代初期の版画家です。
リサーチした結果は以下の通り。
彼は師である小林清親の画風を引き継ぎ、新しい浮世絵のスタイルである「光線画」を生み出した。
1864年に江戸(現在の東京)の浅草生まれ。
父は錦織問屋で、彼は幼少期から絵に親しんでいる。
安治のスタイルは、木版画の技法を用いて、明治初期の東京の風景をスケッチしていくというもの。
夜の街に輝くガス灯の光や影のうつろいを、版画と言う制約の中で繊細に描写している。
まだカメラが一般的ではなかった時代に、明治初期の庶民の生活と東京の風景を記録的に描いている。
特に「東京名所絵」は、はがきサイズの版画で、明治の東京の姿を伝える格好のお土産品として人気だった。
彼は26歳でこの世を去ったが、国内よりも海外に多くのファンを持っているのが、特筆すべき点。
まぁざっとこんな感じ。
活動期間は数年しかありませんでしたから、夭折の天才画家と言うところでしょう。
西洋の絵画は、概ね写実主義で、陰影や遠近法を用いて、対象物をリアルに描いているのに対して、日本の浮世絵や木版画は、写実的ではない代わりに、徹底的にデフォルメされたデザインや構図を大胆に取り入れたインパクトがある作品が多い印象です。
いわゆるジャポニズムと言うやつですね。
室町時代の水墨画にも通じる話ですが、西洋絵画が可能な限りいろんなものをキャンバスに隙間なく描き込む足し算の画風なのに対し、日本の場合は、圧倒的に隙間や余白も残した引き算の画風になっていると考察しています。
この歴史的な文化の足跡は、20世紀の日本で大きく花開くアニメ文化に、多大な影響を与えているのは、間違いないでしょう。
西洋絵画の最終的完成形には、基本デッサンのスケッチ・ラインはほぼ残りません。
油絵の具やテンペラが層になって塗りたくられている印象です。
しかし、木版画には、きちんと線が残ります。
これが状態の絵が、絵画ではなく、イラストというのだと、個人的には勝手に解釈していますが、子供時代に漫画オタクだった身としては、このスタイルが断然馴染みます。
我が家には、わたせせいぞうや鈴木英人といったお気に入りのイラスレーターの作品が今現在、所狭しと部屋の壁に貼ってありますが、写真よりもこちらの方が断然気にいっています。
西洋の画家で、唯一我が家のギャラリーに貼ってあるのは、ロートレックが描いたMoulin Rougeのポスターだけです。もちろんLINEはしっかり残っている絵です。
映画のポスターもあちこちに貼ってありますが、写真を使ったポスターよりも、クラシックのポストの方が好きですね。
なぜかと言えば、往年のクラシック映画のポスターは、写真ではなく、専門画家の肉筆による力作が多いからです。昔のポスターは、タイトルやクレジットの文字まで手書きです。
今回、井上安治の木版画風景画に、不覚にもコロリと参ってしまった背景には、おそらくそんな自身の個人的嗜好が、大きく影響しているだろうと推察する次第。
ちなみに、浮世絵も実は木版画です。
絵師の他に、彫師、刷師という専門職人がいて、順次彼らの手を経て、1枚の浮世絵が完成するわけです。
これは、明治以降の光線画も同様で、この浮世絵木版画の伝統的な手法に、新たな「摺り違い」「ニス引き」といった技法を開発して、繊細なグラデーションの表現も可能にした新生木版画が育ってきたわけです。
井上安治は、絵はがきサイズの四つ切り版をキャンパスにしていました。
彼が作画対象に選んだ明治初期の東京の様子は、実に、このサイズにジャストフィットしている印象です。
そこで、彼が描いた150年前の東京と、現在の東京を比べてみることにしました。
現在の東京の絵は、ネットから拾った写真を、レタッチアプリで、絵画風にアレンジしています。
まずは日本橋です。
構図的には、江戸橋よりから日本橋を見ています。
右岸には魚河岸。
左岸には、赤レンガ造りの三菱会社の七ツ倉。
洋風建築として人目を引いた日本橋、電信支局の建物が描かれています。
戦後は首都高速に覆われたり、水質汚濁が進んだりして、環境面で多くの問題を抱えてきました。
ゴミは排水が川に流れ込み濁水と悪臭に周囲の住民は悩まされました。
しかし現在は、河川環境の改善が進み、日本橋側の水質は徐々に改善されており、魚や水鳥たちも見られるようになっています。
橋面には、「日本国道路元標」というプレートが埋め込まれています。
これは御茶ノ水になります。
神田川に神田上水の水路が架かっている絵です。
水道橋方面から描いているとすれば、左側は湯島台。右側は駿河台と言うことになります。
この地にあったお寺の境内に湧く名水を、時の将軍に献上したのが、この地名の由来とのこと。
現在は、中央線と地下鉄丸ノ内線が交差する駅として、景観も一変し、湯島聖堂も建てられ、東京医科歯科大学や明治大学キャンパスが近くにあることから、学生の街へと変貌しています。
上野駅です。
明治16年に上野熊谷間、翌17年に上野高崎間が開通しています。
赤レンガの駅舎がこれに伴い建築され、落成されたのが明治18年7月。
上野駅を語るときに、その代名詞のように出てくる有名な短歌あります。
ふるさとのなまりなつかし停車場の人ごみの中に、そをききに行く
歌を詠んだのは石川啄木。
停車場と言うのはもちろん上野駅のことです。
以来、上野駅は東北への玄関口として、たくさんの人を迎え、また送り出してきました。
そこには他の終着駅にはない特有の匂いと哀感が漂います。
浅草仲見世です。
浅草広小路の雷門から仁王門までの、およそ250mの参道が仲見世です。
右側には五重塔の相輪が頭を出しています。
当時の東京市は、ここにレンガ作りの店舗を建設し、1棟を数個に分割して貸し付けています。
安治の絵は、その直後に描かれたものでしょう。
関東大震災や戦争中の空襲でレンガ造り店舗はスクラップ&ビルドを繰り返しましたが、現在はこれを補修して使用しています。
日夜人通りが多く賑やかで、特に縁日などの人手の盛りには、向こう側の店が、お互いに見えないほどの混雑ぶりなのは周知の通り。
外国人観光客には最も人気あるスポットになっています。
昔からクラシック映画を見るのが好きなんですね。
その大きな理由の1つが、当時の風景や風俗を歴史的見地から楽しめると言うことにあります。
「ゴジラ-1.0」で、今や時の人となった感のある山崎貴監督の作品で「三丁目の夕日」がありますが、その目玉はなんといっても、監督得意のVFXで、昭和30年代の東京の風俗を、現代に再現する特撮部分です。
もちろん、これはこれで見るべき価値のある映像なのですが、これは、紛れもなく現代の映画になってしまっていて、クラシック映画ではありません。
どんなに上手に再現しても、やはりノスタルジーの部分に作り物の印象が入ってしまうのは否めません。
当時の風景を、当時の技術で切り取ってこそ、歴史的価値があると言うもの。
その見地から言えば、井上安治が当時の最先端技術であった光線画という手法で切り取った、東京のスケッチは、僕のようなクラシック文化ファンを、おおいにワクワクさせてくれます。
安藤広重や歌丸などの浮世絵師たちによる、現実離れした構図や、シンプルで大胆な色彩やラインは、ゴッホやモネなどの西洋画家たちにも多大な影響を与えているのは有名な話です。
おそらく、このあたりの文化的伝統が、日本のアニメ文化に大きな影響を与えて、世界中から賞賛されている大きな理由になっている事は想像に難くありません。
実は白状しておきますと、昔から浮世絵の美人画や草花などの静物画にはあまり魅力を感じていませんでした。
おいおい、いくらなんでもやり過ぎだろうというのが率直な感想でした。
ところがこの木版画の技術をベースにした光線画には、一気に惹かれて驚いています。
しかもそれが、風景画に限ってのことなんですね。
とにかく、眺めているとまったりとしてしまいます。
そろそろ、部屋に入り散らかしてある絵を全取っ替えしてみたくなりました。
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