久しぶりに、自分のDVDコレクションの引き出しから引っ張り出してきました。
本作は、1978年のアカデミー賞を5部門で獲得した傑作ですが、3時間の大作ですので、今まで見るタイミングを逸しておりました。
本作が描くのは、ベトナム戦争。
この戦争で運命が変わったアメリカの若者たちの友情、苦悩、そして戦争の狂気を描いた、あまりにも過酷で衝撃的なドラマです。
日本での公開は1979年ですから、およそ45年も鑑賞を温存してしまったために、映画の前知識だけが膨れ上がってしまいました。
前後のストーリー展開も知らないまま、あの有名なロシアン・ルーレットのシーンだけを、いろいろなメディアで、すでに何度も見てしまっている状態。
映画の一番のコアになる部分をすでに見てしまっているわけです。
そういうわけで、今回はネタバレしている映画を、改めて確認するという鑑賞になったかもしれません。
映画オタクですので、わかっている事前情報は、もちろんそれだけではありません。
監督のマイケル・チミノは、クリント・イーストウッド主演のアクション映画「サンダーボルト」で長編映画監督デビューを飾り、2作目になる本作で、第51回アカデミー賞で作品賞、監督賞を獲得。
一躍トップ監督の仲間入りを果たしましたが、続く「天国の門」で、記録的な大コケ映画を作ってしまい、製作会社のユナイテッド・アーティストを倒産させてしまった前科の持ち主。
これによって、活動の機会は大きく奪われ、生涯に監督した映画は、7本にとどまるという、浮き沈みの多いキャリアを経験している人です。
ベトナム戦争を描いた映画としては、1968年に、当時のアメリカ政府の公式見解を反映したジョン・ウェイン主演の「グリーン・ベレー」などもありましたが、ハリウッドが本格的にこの戦争と向かい合い始めたのは、やはりベトナム戦争が終結した1975年以降。
戦争が兵士たちの心に残した深い傷(PTSD)や、帰還兵が直面する社会との隔絶といったテーマが描かれるようになり、ベトナム戦争映画の金字塔と評される傑作が次々と生まれました。
このテーマで作られた映画として、僕の記憶に残っている作品にハル・アシュビー監督の「帰郷」があります。
戦場に夫を送った妻目線からのベトナム反戦映画で、この妻を演じたのがジェーン・フォンダ。
そして、下半身不随になって帰還した夫を演じたのがジョン・ボイド。
この二人は、「ディア・ハンター」が作品賞を受賞した同じ年に、それぞれ主演男優賞、主演女優賞を受賞。
助演男優賞を獲得したのは、「ディア・ハンター」でニックを演じたクリストファー・ウォーケンでしたから、この年はまさにベトナム反戦映画の当たり年。
ある意味では、ベトナム戦争映画元年ともいえる年だったかもしれません。
ベトナム戦争を扱った映画は、この翌年の「地獄の黙示録」1986年「プラトーン」1987年「フルメタル・ジャケット」「7月4日に生まれて」と続くことになります。
ただ、これらの映画と、本作が明らかに一線を画すのは、その舞台を戦場だけでなく、兵士たちの暮していたペンシルバニア州クレイトンの人間関係まで含めてきちんと描いていること。
本作は、明確な3部構成で物語が展開します。
それぞれのパートが主人公たちの人生と心情の変化を残酷に、そして象徴的に描いています。
主なキャストは、ベトナム戦争に招集される3人マイケル、ニック、スティーブンに扮するのが、ロバート・デ・ニーロ、クリストファー・ウォーケン、ジョン・サベージ。
そして、故郷で彼らを待つのが、ジョン・カザール、メリル・ストリープ。
第一部は、戦争前の故郷での平穏な日常です。
ペンシルベニアの製鉄所で働く青年たちの生活と友情、スティーヴンの結婚式、鹿狩りのシーンなど、静かな田舎町の群像劇を、実に丁寧に描きます。
戦争に行く前の若者たちの想いや人間関係、家族や恋人との交流が見るものに深く印象付けられます。
そして、舞台は一転して、突然ベトナムの地獄の戦場へ。
マイケルたちは地元での仲間とともに戦地で再会し、戦闘や捕虜としての過酷な体験(ロシアンルーレットを強いられる場面)が描かれます。これがあまりにも強烈。
戦争の非人間的な状況下で彼らの関係は崩れ、心の傷が深く刻まれるパートです。
そして、第三部。
マイケルが帰郷すると、スティーブンは、すでに復員しています。しかし両足の機能を失い、PTSDを患ったスティーヴンは、自分の家では暮せずに、ベトナム復員兵施設へ。
マイケルも、自分の失われた過去を痛感し、自分自身の心の傷と向き合う日々が丹念に描かれます。
そして、スティーヴンの施設に見舞いに行ったマイケルは、彼の元へベトナムから定期的に「仕送り」が届いていることを知ります。
送り主が、ニックであることを直感したマイケルは、全財産をポケットに詰めてベトナムへ。
ロシアン・ルーレットが行われている秘密の賭博場でマイケルは、別人のようになったニックを見つけます。
そして、あの衝撃のラスト。
改めて本作を見ると、「戦争前→戦争→帰国後」の三部構成が、平穏から狂気、そして喪失と癒やしへと続く、映画の重厚なドラマ性をきっちりと生み出していることがわかります。
これが本作の高い評価につながっていることは間違いのないところ。
これまでに、何度もつまみ食いしてきたあのラストでしたが、3時間のドラマをしっかりと見せられると衝撃も感動も圧倒的にインパクトが違いました。
戦争の狂気がいかに人間の精神を崩壊させるのかをリアルに描写したという意味で、本作の価値は今後も語り継がれることは間違いなし。
公開当時は、この生死を賭けたロシアン・ルーレットが、実際にベトナム現地で行われていた公式な記録はないと問題になったそうです。
ベトナム人の残虐性を故意に演出した悪質な映画と、かなりのバッシングもあったそうです。
マイケル・チミノ監督も、これを実際に取材した事実とは明言していません。
ただ、映画はあくまでもフィクション。
公開されてから45年たって、本作を鑑賞した正直な感想を申せば、戦争をロシアン・ルーレットという“ゲーム”に収斂させたことで、監督は戦争の“無意味さ”“偶然性”“生死の不条理”を強烈に象徴する強烈な映画的メタファに昇華させたことは間違いありません。
この翌年に、フランシス・フォード・コッポラ監督は、私財をつぎ込んで、ベトナム戦争そのものを映像化した「地獄の黙示録」を公開しましたが、「ワルキューレの騎行」の音楽に乗って、ヘリコプター部隊がベトナムの農村を銃撃するシーンを見せられるよりも、自分の頭に銃口をつきつけて、苦悶の表情をするクリストファー・ウォーケンの表情に胃がキリキリと痛んだ映画的体験の方が、僕にとってははるかに強烈なインパクトであったことは事実。
個人的には、このロシアン・ルーレットのアイデアこそが、この映画をここまでの傑作にさせた原点だったように思います。
主演のロバート・デ・ニーロの熱演はもちろんのことですが、ロシアン・ルーレットに蝕まれていくニックを演じたクリストファー・ウォーケンの演技は光ります。
ラストで、マイケルと対峙するニックの、生気を失った異様な目。
このシーンだけを今までに何度となく見てしまっている後遺症で、僕の中のこの人のイメージを決定づけてしまったところがあります。
後にこの人は、007シリーズの悪役をやったりするのですが、その時もこれと同じ目。
この人は、俳優としては、こちらが「売り」で、キャリアを積み上げてきた印象なんですね。
ですから、映画の第一部で、マイケルの親友として、仲間たちとふざけたり、歌い合う彼の演技が、あまりにそれとかけ離れていて、おもわずコチラの方に感心してしまいました。
この人、こんな自然な演技もできるのかという驚きです。
この映画の大きな見所の一つは、間違いなく、第一部、第二部、第三部と変わってゆくニックの眼そのものです。
これは見逃すべからず。
第一部では、ペンシルバニアで暮らす普通の若者の眼、第二部では、ベトナムでロシアン・ルーレットの地獄に晒されている苦悶の眼、そして第三部では、この経験の後遺症により、ロシアン・ルーレット依存症になってしまい生気を失った眼。
この対比を確認するだけでも、本作を鑑賞する価値は充分にあると思う次第。
クリストファー・ウォーケンのアカデミー賞助演男優賞獲得もムベなるかなです。
個人的には、あのデ・ニーロを、あの眼だけで食ってしまっている印象があります。
さて、このベトナム戦争を痛烈に批判した映画に、なぜ「ディア・ハンター」というタイトルがつけられたのか。
これは、どうしても気になった点でした。
本作において、ベトナムでの非人道的で残虐なシーンと、兵士たちの故郷ペンシルベニアでの鹿狩りの様子は、戦争が人間の尊厳や生命倫理をいかに破壊するかを鮮烈に描き出すための、計算され尽くした対比構造となっている気がするわけです。
一つ目は、生命との向き合い方です。
故郷での鹿狩りのシーン、特にベトナム出征前の場面で、主人公マイケルは鹿を一発で仕留める「One Shot」という哲学にこだわります。
これは、獲物に対する敬意の表れであり、生命を奪う行為に対する彼なりの倫理観と、自らの行動をコントロールしようとする意志の象徴です。
鹿狩りのシークエンスは、雄大な自然の中で、厳粛な儀式として「狩り」が行われているように演出されています。
これに対し、ベトナムの捕虜収容所で強いられるロシアン・ルーレットは、生命が単なる偶然と賭けの対象に成り下がる、究極の非人道的状況です。
そこには何の哲学も敬意もなく、ただ恐怖と狂気が支配しています。
人間の命が、弾倉のどこに弾が込められているかという、全くコントロール不能な運命に委ねられてしまうわけです。
このように、「コントロールされた生命のやり取り」としての鹿狩りと、「偶然に支配された死のゲーム」としてのロシアン・ルーレットが対置されることで、戦争がいかに人間の理性を麻痺させ、生命の価値を貶めるかというテーマが際立ちというわけです。
映画は、ペンシルベニアの鉄鋼町の日常と、荘厳で美しい山々の風景を丁寧に描写します。
仲間との友情、結婚式といったコミュニティの営み、そして静寂と秩序に満ちた自然。
これらは、彼らが守るべきものであり、帰るべき場所としての「故郷」を象徴しています。
鹿狩りは、その秩序ある自然の中で行われる、男たちの通過儀礼的な意味合いも持っています。
一方、ベトナムのシーンは、泥と水、怒号と悲鳴に満ちた混沌(カオス)の世界として描かれます。捕虜を水牢に閉じ込め、人間の命を弄ぶベトコン兵士たちの姿は、理性が崩壊した戦争の狂気を体現しています。
故郷の美しい自然とは真逆の、人間性が破壊される場所として戦場が描かれています。
本作の核心は、ベトナムでの経験を経て、マイケルにとって「鹿狩り」の意味が根底から覆されてしまうという残酷な現実にあります。
出征前、鹿狩りは仲間からの尊敬を集める英雄的な行為であり、彼のアイデンティティの一部でした。
ところが帰還後は、戦争という究極の「人間狩り」を生き延びたマイケルが、心に深い傷(トラウマ)を負うことで、再び仲間と鹿狩りに行っても、彼は鹿を目の前にして引き金を引くことができません。
かつて「One Shot」にこだわった男が、生命を奪う行為そのものに耐えられなくなってしまったのです。
彼は天に向かって銃を放ち、「OK?」と虚空に問いかけます。
この行動は、戦争によって彼の内面が決定的に変わってしまったことを象徴しています。
娯楽であり、誇りでもあった鹿狩りが、耐え難い苦痛を伴う行為へと変貌する様を通して、映画は戦争が兵士の魂に刻み込む、消えることのない傷跡を静かに、しかし力強く描き出しているということでしょう。
「ディア・ハンター(鹿狩りをする者)」というタイトルは、この痛烈な皮肉と変化そのものを暗示していると考えていいかもしれません。
戦争が影を落とすところは、戦場だけではないということを、この映画は45年たった今も、強烈に突きつけてきます。
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