本作は、2016年に発表された、第26回鮎川哲也賞受賞作品です。
そういえば、飛行船てみなくなりましたよね。
昭和の頃には、まだ企業宣伝用の飛行船がゆっくりと空を浮遊していた記憶があります。
日立の「キドカラー号」、ブリジストンの「グッドイヤー号」などなど。
たぶん、有人ではなかったと思います。
Wiki してみたら、今はメットライフ生命保険の「スヌーピーJ号」が、桶川の河川敷を本拠地にして稼働しているとありました。ちなみにこれは有人飛行船。
桶川河川敷は、僕の住んでいる川越のマンションからでも見える場所です。
まだ、ナマで見たことはありませんが、いつか会えるかもしれません。
いずれにせよ、現代においては飛行船はあまりメジャーな乗り物にはなっていません。
なぜか。
とにかく図体がでかい。そしてコストがかかる。遅い。風にあおられると操舵性が悪くなり危険。
極めつけは1937年に発生したヒンデンブルグ号の大爆発炎上事件だったでしょう。
この映像は、今でもYouTubeで見られますが、ジャンボ機の3倍の大きさの飛行船が、爆発から1分もたたないで燃え落ちる姿は強烈でした。
それまでは、空の主役でもあった飛行船は、この事故をきっかけに、その座を飛行機に譲るこになります。
閑話休題。
さて、ジェリーフィッシュとはクラゲのことです。
作者の言葉を借りれば、気囊式浮遊艇の製品名。
わかりやすくいえば、小型飛行船です。
一応本作は、SFミステリーということになっていますが、描かれている時代は1983年。
飛行船は、本書の描く世界では、新技術の発明により小型化に成功し、富裕層を中心に、個人でも購入が可能となり、そこそこ世界の空を飛びまわっています。
いってみれば、そんな仮想現実が実現しているパラレル・ワールドが本作の舞台となります。
この浮遊艇はいくら小型化しているとはいえ、高さ20m幅40mという代物です。
日本のスタンドではこんな巨大な乗り物が停泊止出来るスペースを確保することは、たとえどんな田舎であろうと不可能。
従ってこのジェリーフィッシュを主人公にする必要上、舞台は果てしない荒野にスタンドがポツリポツリと点在するU国(アメリカ?)のような広大な国家でなくてはならず、必然的に本作の登場人物も、すべてU国人という設定になります。
事件を担当する女性警部もU国人で、美人で姉御肌のマリア・ソールズベリー。
その助手となる九条漣だけがかろうじてJ国(日本?)出身です。
しかし、日本の小説ですから、登場人物たちが喋っているのはすべて日本語。
最初はなかなかこの世界に馴染めませんでした。
しかし、なるほどこれは、吹替え版の洋画を見ていると思えばいいんだと理解。
まずはこの小説のお約束を飲み込みます。
これで、脳内シアターにおいては、マリア警部は、藤原紀香が吹替えをしたキャメロン・ディアスに決定。
九条漣には、岡田准一をキャスティングしました。
最近の声優には詳しくないのですが、その他の登場人物たちの吹き替えは、大塚周夫、野沢那智、池田昌子(古いかな?)に務めてもらい、本作のキーとなる美少女には、綾波レイの吹き替えでお馴染みの林原めぐみという声優陣で脳内再生していくことにいたしました。
さて本書のキャッチコピーはこれです。
『21世紀の「誰もいなくなった」登場』
この古典ミステリーの傑作は、つい先日読んだばかり。
まだ記憶にも新しいので、リアルな比較は出来そうです。
ジェリーフィッシュに追加された新機能の性能を確認するための試験飛行に搭乗した開発チームの6人。
まず、航行中の浮遊艇の中で最初の犠牲者が出ます。
アルコールにおぼれ、もはやチームの中ではお飾りでしかなかった最年長教授が毒殺されます。
その後、ジェリーフィッシュの自動航行システムが暴走。
試走機は、残りのメンバーを乗せたまま、雪に閉ざされた山奥に不時着。
残り5人となったメンバーの中で、2番目の犠牲者となったのはリーダー格の青年。
同じく毒殺です。
残された4人はパニックになります。
疑心暗鬼になり、次に殺されるのは自分かもしれないと怯える乗組員たち。
実は彼らには、命を狙われる理由となるべき暗い秘密の過去があったのです。
このあたりは「そして誰もいなくなった」のサスペンスの盛り上げ方をきちんと学習していますね。
4人になったメンバーは艇内をくまなく調べて、7人目の外部犯がいないことをきちんと確認するくだりも、クローズドサークルものでは鉄板の展開。
これでメンバー間には緊張感が高まり、恐怖はさらに増幅されます。
もちろん新しい試みもふんだん。
「そして誰もいなくなった」は、絶海の孤島と言うワンステージだけで展開されるミステリーでしたが、本作では、同時に3つの場面のストーリーが並行して語られていきます。
1つは、もちろんジェリーフィッシュの中で、搭乗員が一人一人殺されていくメインパート。
もう一つは、ジェリーフィッシュが雪の山中で炎上していると言う通報を受けて、この事件の捜査にあたったマリア&漣コンビが事件の真相を究明していくと言う「地上」パート。
この構成は、本書の帯にもあるように「十角館の殺人」のスタイルを踏襲しています。
(この本に関しては、現在図書館で予約待ち。未読ですのでYouTube動画のミステリー解説のケウリです)
しかし、本作にはさらに、犯人視点の短いモノローグパートが絡まります。
真犯人のモノローグですから、これはよほど上手にやらないと、真相がばれてしまいますが、読者へのミスリード・テクニックも含めて、作者の語り口は鮮やかでした。
この3つのパートが有機的に絡まって、次第に真相に近づいていくという構成は、これが長編デビュー作とは思えないほど緻密でドラマチックです。さすが東大卒。地頭がよろしい。
そしてすべてのパートがひとつにつながって迎えるラストシーンには、仕掛けられたトリックが解かれる快感もさることながら、純粋にドラマとしての感動もありました。
完全にやられてしまいましたね。
かなり映画的でグッとくる大円団でした。
映画的といえば、本作を読みながら、たびたび脳裏に浮かんでいた映画がありました。
1966年リチャード・フライシャー監督によるSF映画の傑作「ミクロの決死圏」です。
ミクロになった潜航艇が人体の中に入っていって、患者のがん細胞を駆除するという近未来冒険映画です。
とにかく僕らの世代はカッコいい未来型乗り物の造形にめっぽう弱いんですね。
それがたとえ海月であっても、個人的には、子供の頃にたくさん買ったメカ系プラモデルを想起させてワクワクしてしまいます。
この作者は、僕よりもずっと年齢は若いのですが、爺さんの喜ばせ方のツボもご存じのご様子。
さて、1983年という過去を、仮想現実のパラレル・ワールドとしてリアルに表現するために、作者は相当量の理系知識を投入してきます。
子供の頃に見たSFアニメなら、とんでも科学知識はすべて鵜呑みにして、キャラとメカのカッコよさだけに没入していればいいのですが、こちらも常識的科学リテラシーはそれなりに向上してはいますので、簡単に丸め込まれてなるものかと構えます。
マリア警部は、「どうせあたしの化学の成績はDで、赤点すれすれよ」とやたら化学IQの高い漣に食って掛かっていました。
僕も似たようなものですが、今はたいていのことはAIが教えてくれます。
例えばこんなセリフがありました。
「知ってる? 海月って、氷点下の海の中でも泳ぐことが出来るんだよ。」
解答。
一部のクラゲは、凍結耐性タンパク質と呼ばれる特殊なタンパク質を持っています。
このタンパク質は、細胞内の水が凍結するのを防ぎ、クラゲが極寒の環境でも生き残ることを助けます。
.なるほど。これで本作のタイトルの正当性は回収されました。
マリアのこんなセリフもありましたね。
「青酸ガスと反応して固まる樹脂なんて、あたしだってこの前聞き込みして初めて知ったくらいなのに・・」
解答。
ガスによって硬化する樹脂とは、特定のガスの存在下で化学反応を起こし、固体化する樹脂のことを指します。
この硬化プロセスは、樹脂がガスと反応して架橋結合を形成し、その結果として物質が硬くなる現象です。
青酸ガスに反応して硬化する特定の樹脂については、一般的な情報源では確認できませんでした。
もし実際に存在するとすれば、それは非常に特殊な用途や条件下でのみ使用される可能性があります。
・・との事ですが、二酸化炭素ガス、アンモニア・ガス、エチレン・ガスによって硬化する樹脂は存在するそうなので、本書で描かれる世界では、新素材である樹脂が、青酸ガスに反応することは有り得なくはないといったところでしょうか。
では、本作の肝となる設定について聞いてみます。
飛行船を飛ばす原理として、ガスの代わりに内部を真空状態にすることで、飛行船のサイズを劇的に小さく出来るような可能性はあるか?
解答。
理論的には可能ですが、実用的な面では多くの課題があります。
飛行船が飛ぶ原理は、アルキメデスの浮力です。
物体は、自身が押しのけた流体の重さに等しい浮力を受けます。
飛行船の場合は、軽量なガスを内部に充填することで、空気よりも密度が小さくなり、浮力が発生します。
必要な浮力が小さいため、飛行船のサイズを小さくすることは可能です。
軽量なガスを使用する必要がないため、安全性が高く、大気汚染などの環境負荷が少ない。
しかし真空状態を維持するために、高度な技術とエネルギーが必要です。
機体の構造が、大気圧に耐えられるほど強固でなくてはならないからです。
微小な漏れでも、真空状態が失われてしまう
これらの課題を克服するためには、現在の技術では実現困難なレベルの材料や技術が必要です。
そのため、真空飛行船は、SF作品の中でのみ存在するものです。
まあ、本格ミステリーの設定としては、ギリギリセーフといったところでしょうか。
航空科学や化学の専門用語が、最後まで飛び交う理系ミステリーではありますが、作者がけっしてそれで読者を煙に巻くということはありません。
作者の豊富な理系知識を駆使した科学トリック、過去の傑作を読み込んだミステリー・リテラシーの高さ、そして緻密に計算され、文章の細部に渡って仕掛けられた巧みな叙述トリック。
独特なルビ。緻密な構成力。マリア&漣コンビのユーモラスなやりとり。
市川ワールドは、なかなかクセになりそうです。
ところで、もしもあなたが、ミステリー小説の沼にはまって、自分の部屋に引きこもって外に出ないでいるミステリーオタクの女性だとしたら。
そんなあなたには、「他人」の僕から心を込めて、この言葉を送りたいと思います。
「彼女に、広い空を見せてあげたい」
ゴールデン洋画劇場を見るつもりで、ぜひ極上のミステリーのご一読を。
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