Amazon プライムに、今年公開されたばかりの話題作が、早々とリストアップされていたので早速鑑賞させていただきました。
本作は、アレックス・ガーランド監督によるディストピア的近未来リアル戦争映画で、その根本にあるのは現代アメリカの分断社会が孕む恐怖です。
この分断が、日本とは違い、多民族国家のアメリカでは、かなり複雑に絡み合ってきます。
まずはこの辺をちょっと整理しておきます。
分断社会をその対立構図で示すとおよそ以下の通り。
まず一番わかりやすい対立は、民主党 vs 共和党。
民主党はリベラルな政策を支持し、共和党は保守的な政策を支持します。
この対立は、二大政党が政権を争うことで政治的バランスを図って成長してきたアメリカ社会の基本中の基本。
次に経済的格差。富裕層vs貧困層の対立です。
これはわが国でも社会問題になっていますが、アメリカはその規模が違います。
アメリカの人口の1%に満たない富裕層が、アメリカの富を独占しているという状況です。
日本人にわかりにくいのは3つ目の白人vs少数民族。要するに人種・民族の対立です。
アメリカ社会では、白人とアフリカ系アメリカ人、ヒスパニック、アジア系などの少数民族との間で人種的な緊張が慢性的に存在します。
歴史的な差別や不平等が根強く残っており、これが社会の分断を深めています。
Black Lives Matter だけが、アメリカの人種問題ではないわけです。
都市部 vs 地方部という分断も存在します。
都市部は多様性や進歩的な価値観を重視する傾向があり、地方部は伝統的な価値観や保守的な立場を支持するというのがこの分断の基本。
南北戦争の昔から、根強くアメリカ社会に尾を引いている分断問題です。あの戦争で全てが解決したわけではありません
経済格差に付随するものかもしれませんが、高学歴層vs低学歴層と言う分断もあります。
教育レベルの違いもアメリカ社会では分断の一因となっています。
高学歴層はリベラルな価値観を持つことが多く、低学歴層は保守的な価値観を持つことが多いというのが基本。
これらの対立構造が複雑に絡み合い、アメリカ社会の分断は相当なカオス状態になっています。
これが見事に可視化されたのが、今年行われたアメリカ大統領選挙でしょう。
アメリカ合衆国第47代大統領は、トランプか、ハリスか。
最終的には、この決戦を制したのはトランプでしたが、マスコミ報道を見ている限り、その予想は投票前日までかなり混沌としていました。
当然のことながら、この映画を作るにあたって、アレックス・ガーランド監督が、アメリカのこの社会状況を憂慮し、かなりの危機感を持っていたことは伺えます。
民主主義社会において、分断解決に不可欠なのは当然のことながら対話です。
けれどもこの対立が、大きなうねりになってくると、人間の理性は封印され、抑圧されてきた不安や不満が大きなエネルギーになって噴出。
建設的な歩み寄りはもはや不可能な状態となり、相手への攻撃が罵詈雑言となって先鋭化します。
こうなると、正常なコミュニケーションは成立しません。
今回のアメリカ大統領選挙が終わってみて感じるのは、カマラ・ハリスを推した民主党側の戦略が少々お行儀良すぎたのではなかったかという印象です。
これに対し共和党トランプ陣営の戦略は、民主党政権への不満分子のエネルギーを最大化させ、その熱狂を煽り、自身のスキャンダルも矮小化させ、ハリス陣営を勢いで呑み込んでしまうこと。
分断社会の一番怖いところは、その規模が大きくなればなるほど、個人の理性はその中に埋没してしまい、封印しているはずの本能が集団の中で表面化されてしまうことです。
ドナルド・トランプ氏の今回の大統領選の一番の勝因は、彼がこれを理解していることだったかもしれません。
さて、分断社会では、政府への反対勢力が、当然ながら常に一定以上の巨大勢力になります。
この不満が黒い渦を巻き始めると、社会は一挙に不安定となり、不穏な空気に包まれていきます。
こうなると、ふと思い浮かべてしまうのが建国以来のアメリカ憲法に明記されている例の条文です。
アメリカ合衆国憲法修正第2条。
アメリカ憲法は、この条文により、国民が武器を保有し、携帯する権利を認めています。
この条項は、もともと規律ある民兵が自由な国家の安全にとって必要であることを理由に、人民の武器保有権を侵してはならないとしたものでしたが、今では個人の自己防衛や自由を守るための権利として解釈されています。
アメリカという国の成立を考えるとこの条文も理解できる気はしますが、これが現代の憲法にもきちんと生きているというのがのがアメリカという国の怖いところ。
これゆえ、アメリカでは州ごとに軍隊が組織され、陸軍と空軍を保持しています。
彼らは州内の緊急事態や災害対応、治安維持などに従事。
やっていることは、日本の自衛隊と変わりないという気もしますが、やはり軍隊といわれてしまうと、日本人としてはかなり違和感があります。
アメリカにおける州の権限と独自性は、基本的に政府の方針に従うことが大前提とされる日本の都道府県とは比べ物にならないくらい強いものです。
その州が、軍隊まで持っているというわけですから、この修正第2条の持つ意味は大きいでしょう。
もちろん、この条文が、あれだけ悲惨なライフル乱射事件が頻発しても、銃規制にはなかなか動かないアメリカの銃社会の法的な後ろ盾になっていることは言うまでもありません。
この分断社会が潜在的に持つ不安定さと、暴力に対するある意味での寛容さ、そして歴史的に培われてきた中央政府に対する距離感を理解してみると、本作が描く近未来のアメリカはよりリアルに想像出来ます。
『Civil War』は近未来のアメリカを舞台に、内戦が勃発した国家の混乱を描いています。
ことの発端は、何代目か先に誕生することになるアメリカ大統領の暴挙。
この大統領が、自分の権力にしがみつくあまりにいろいろとやらかしてしまいます。
そして、あろうことか憲法で明記されている「大統領は二期まで」という条文まで無視して、三期目も大統領の座に居座ってしまいます。
この大統領は権威主義的な政治を展開し、報道の弾圧、FBIの解散、憲法の停止などやりたい放題。
この政権を転覆させない限り、自分たちの未来はないと立ち上がったのがカリフォルニア州とテキサス州を中心としたホワイト・フォースです。
その他の勢力として、新人民軍やフロリダ同盟などの名前も出てきますが、本作で中心的に描かれるのはホワイト・フォースです。
こうして南北戦争以来のアメリカ内戦が勃発すると、この大統領は自らの演説は中継するものの、マスコミの取材には一切応じなくなります。
この状況の中で、この大統領のインタビューと写真画像を撮ることに意義を感じ、ニューヨークから首都ワシントンD.C.に向かうジャーナリストが、本作の主人公たちです。
主人公のベテラン戦争写真家リーを演じたのは、キルスティン・ダンスト。
ん? この顔はどこかで見覚えがある。
はいはい、思い出しました。「スパイダーマン」のガールフレンドだったメリー・ジェーン・ワトスンを演じた彼女でした。
あのお嬢さんもすでに42歳になっていました。
本作では、化粧っ気なしで熱演。貫禄たっぷりでした。
若手フォトジャーナリストのジェシーを演じたのはケイリー・スパエニー。
本作では、最初は子供みたいに見えた彼女が、ラストでは凄惨な戦場で一心不乱にシャッター切る一人前の戦場カメラマンに成長していきます。
近未来戦争映画でありながら、本作はロード・ムービーというフォーマットで撮られた、一人の女性の成長を記録を追いかけた人間ドラマともいえます。
その他、リーの仲間である報道記者ジョエルにヴァグネル・モウラ。
二人の先輩であるベテラン黒人記者にスティーブン・ヘンダーソン。
本作で、例えば「プライベート・ライアン」の冒頭22分のような、戦争の残虐性を直接的に描くシーンを期待するとちょっと当てが外れるかもしれません。
本作ではそれを避ける意図で、ジャーナリスト4人のロードムービー形式を採用したことは明白。
彼らが戦場と化したアメリカを横断する旅を通じて、その心理的変化や人間関係の変遷が丁寧に描かれていきます。
戦争は人間の攻撃性や暴力性を覚醒させる強力な要因となります。
平時には抑制されている攻撃衝動が、戦時下では正当化され、むしろ奨励されることで、人々の心理や行動に大きな変化をもたらしていきます。
戦闘ストレスによる過度の警戒心やパニック症状。
敵を「非人間化」することで、共感性が低下し、暴力行為への心理的抵抗が脆弱化。
道徳的な規範が緩み、非人道的行為が正当化され、暴力を増加させていきます。
そして、それとはまったく正反対の反応として、起きている現実を正視することを避け、現実とはまったく無関係であるように振舞うコミュニティ。
二人の女性カメラマンは、そういった戦争下で起こっている異様な現実を目の当たりにする度に、カメラのシャッターを押していきます。
ラストのワシントンD.C.陥落の攻防戦では、それまで抑えていた戦闘モードが一気に全開になり、突撃部隊に張り付くようにジャーナリストも身の危険に晒されながら、緊迫の状況を記録。
日本にいるとこんな報道写真にお目にかかることは滅多にありませんが、第二次世界大戦終結以来、常にどこかの国と戦争をしてきたアメリカではどうだったのか。
気になったのでちょっと調べてみました。
戦争を記録した写真家で、まず真っ先に思い浮かぶのがロバート・キャパ。
この人はハンガリー生まれですが、アメリカ人です。
彼の戦争写真の特徴は、まずなんといっても被写体への接近と臨場感。
キャパは小型の35mmカメラ(特にライカ)を使用し、戦争の劇的な瞬間を捉え続けました。
代表作であるスペイン内戦時の「崩れ落ちる兵士」や、ノルマンディー上陸作戦(Dデイ)の写真は、その瞬間性とリアリズムが圧倒的。
ちょっとピンボケなのが、妙に説得力がありました。
彼は戦闘シーンを記録するだけでなく、戦争が人々の日常や感情に与える影響をも捉えました。
例えば、不安げな市民や途方に暮れる人々の姿を通じて、戦争がもたらす人間的な側面を描き出しています。
本作で二人の女性カメラマンが撮り続けるショットには、基本的にキャパと同じ視線が感じられます。
彼自身が「もし写真が十分に良くないなら、それはあなたが十分近づいていないからだ」と語っているように、この二人も、キャパの信念が乗り移ったように、兵士たちに密着してシャッターを押し続けます。
二人が使っているフィルムも、キャパの写真に敬意を表するように、共にモノクロ・フィルム。
報道写真家としては、日本の沢田教一も忘れられません。
彼は日本の報道写真家で、特にベトナム戦争を撮影したことで知られています。
彼の作品「安全への逃避」(この名前で検索すればすぐに出てきます)は、ピューリッツァー賞を受賞し、戦争の悲惨さを世界に伝えました。
思えば、報道写真が圧倒的な威力をもって、世論を動かすまでの原動力になったのは、なんといってもベトナム戦争からでした。
朝鮮戦争では、まだジャーナリズムは厳しい報道規制の中で、その報道は制限されていましたが、ベトナム戦争には沢田をはじめとするフリーカメラマンが大挙戦場に密着してその惨状を世界に伝えたことで、アメリカ政府も撤退に向けて動かざるを得なくなったわけです。
我が国では、戦争やテロ組織を現地から報道するジャーナリストたちは、近年「自己責任論」を問われて、政府からはやっかいもの扱いされている現状です。
ジャーナリストの後藤健二氏が、2015年1月30日、過激派組織「イスラム国」(ISIL)により殺害された経緯はまだ記憶に新しいところ。
「テロには屈しない」という当時の安倍総理の不用意な発言が、水面下で行われていた後藤氏の解放交渉を決裂させたことは明らかです。
話が脱線しました。戻します。
本作は、アメリカ社会の分断対立が次第にエスカレートして、コミュニケーション不全になっていく状況に、警告を鳴らした作品であることは間違いのないところ。
アレックス・ガーランド監督が、その対立軸やイデオロギーの部分をあえて不明瞭にしたのは、そこは本作を鑑賞する人に委ねたいということでしょう。
それよりも、対話をあきらめて一度戦争状況に突入してしまうと、そこからは予想もできない恐ろしい現実が出現して、コントロール不能になっていく危険性を警告しているわけです。
ロシアとウクライナの戦争の現状を解説出来る専門家やジャーナリストはいるかもしれませんが、彼らにこの戦争がどうなるかを予測することは出来ません。
戦争というものは、それくらいカオスなもの。
政治的なことにはとんと興味も関心もない日本人の百姓ですので、本作を政治映画として見る事はしません。
基本的には特殊状況下における人間の行動心理を深掘りし、一人の報道カメラマンの成長の過程を追うドラマとして楽しませてもらいました。
日本ではあり得ない現実と思いつつも、本作をただの対岸の火事として日和見してしまうのは憚られるテーマではありました。
明治時代の戊辰戦争以来、本格的な内戦を経験していない我が国ではありますが、こんな現実をもしも生きているうちに経験することになったら、さすがにビビりますね。
間違いなく、おしっこシビルウォー。
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