アントニー・バークレーの「毒入りチョコレート事件」を読み終わったら、突然ムラムラとこの映画を見直したくなりました。
映画『名探偵登場』(原題:Murder by Death)は、1976年に公開されたアメリカのコメディ・ミステリー映画です。
脚本をニール・サイモンが手掛け、ロバート・ムーアが監督を務めました。
名探偵小説や映画のキャラクターをパロディ化したユーモアたっぷりの内容で、ミステリー・ファンには特に楽しめる作品となっています。
往年のミステリー小説にある定番のお約束を、過激なまでのギャグで笑い飛ばしてくれるニール・サイモンのセンスが光ります。
億万長者ライオネル・トウェイン(トルーマン・カポーティ)が、自身の邸宅に世界的に有名な5人の探偵とその助手たちを招待します。
彼は「真夜中に殺人事件が起き、その犯人を当てた者には100万ドルを授与する」と宣言。
予告通り、深夜0時に密室で殺人事件が発生しますが、被害者はなんとトウェイン自身。
背中には12本のナイフが刺さっています。
12本のナイフ?
アガサ・クリスティの「オリエント急行殺人事件」を知っているものならまずここでニヤリですね。
そしてもちろん、鬱蒼とした人が近づかない森の奥の館で殺人が起こると言うみんなが大好きなクローズド・サークルの設定も、同じアガサ・クリスティーの「そして誰もいなくなった」へのオマージュです。
ミステリーの女王も草葉の陰で苦笑いでしょう。
この作品では、ミステリーの歴史に名を残す有名な探偵キャラクターがパロディとして5組登場します。
当然そのネタ元を知っているのと、知らないのとでは、ニヤリとする回数が違ってきます。
それぞれのキャラクターは以下の通り。
サム・ダイヤモンド(ピーター・フォーク)。
ダシール・ハメット作『マルタの鷹』のサム・スペードがモデルですね。
もちろん映画では、ハンフリー・ボガードが演じた役ですが、ピーター・フォークもかなりのハードボイルドぶりで、女に優しくないタフガイを演じていますが、悲しいかなこの人は、どこからどう見てもコロンボにしか見えません。
これもギャグと言えばギャグ。
ジェシカ・マーブルズ(エルザ・ランチェスター)。
アガサ・クリスティ作『ミス・マープル』シリーズのミス・マープルがモデルですね。
車いすに乗った老女がミス・マープルかと思いきや、実はこちらが年を取った看護婦で、車いすを押している太めのオバサンがミス・マーブルという人を食った設定。
この人は、まだスマートだった若かりし頃「フランケンシュタインの花嫁」で、人造花嫁を演じた女優です。
ミロ・ペリエ(ジェームズ・ココ)
これは、あの有名な髭で歴然。灰色の頭脳の持ち主エルキュール・ポワロ(アガサ・クリスティ作)がモデルだとわかります。
本作では、ポワロの美食家としての一面を、徹底的にデフォルメしています。
シドニー・ワン(ピーター・セラーズ)。
1920年代から1930年代にかけて執筆された推理小説シリーズで、ハワイ・ホノルル警察に勤める中国系アメリカ人刑事チャーリー・チャンがモデル。偉そうに言っていますが、この人の作品は未読です。
芸達者なピーター・セラーズは、この作品の後、「天才悪魔フー・マンチュー」でも、悪徳中国人を演じていましたね。
ディック&ドーラ・チャールストン夫妻(デヴィッド・ニーヴン&マギー・スミス)
『影なき男』シリーズのニック&ノラ夫妻がモデル。Amazon プライムにこの映画版がありましたので、チラリと見てみましたが、この二人の印象とはだいぶ違いました。
マギー・スミスは、ホグワーツ魔法魔術学校のミネルバ先生ですね。
そして、忘れてならないのが、この館の盲目の執事を演じたアレック・ギネスの快演です。
雇った料理人が聾唖という設定ですから、この二人は完全にコミニケーション不能。
かなりブラックなシチュエーション・コメディになっています。
怪しげな執事も、古典ミステリーあるあるの一つですから、この名優のキャスティングもギャグとしてかなり効いています。
映画では、謎解きの論理性や整合性は完全に無視。
むしろその不条理さを徹底的に笑いの要素として活用しています。
典型的なミステリー映画では、雨や霧といった不気味な天候が雰囲気作りに使われますが、この映画では「雰囲気を出すために窓にスプリンクラーシステムを設置している」という設定。
脚本のニール・サイモンは一行で笑いを取るセリフ(ワンライナー)の名手です。
この映画でもキャラクター同士の掛け合いが秀逸。
例えば、「盲目の執事?駐車係には向いてないね」だとか、シドニー・ワンには、「それは新婚旅行中のテレビだよ。つまり不要だ」なんてニヤリとさせるセリフを随所で言わせてますね。
ギャグを解説するくらい野暮なことはありませんから、このくらいにしておきますが、ニール・サイモンは、これだけ古典ミステリーをこき下ろしておきながら、実はこよなくミステリーを愛していることがヒシヒシと伝わってくるから不思議です。
ところで、ミステリーの世界に浸っていると、殺人は日常茶飯事のような錯覚を覚えてしまいますが、果たしてそうなのか。
気になってちょっと調べてみました。
2023年の国内で起きた殺人事件は全部で912件。
これが多いのか少ないのかはピンときません。
日本には、いわゆる所轄といわれる組織体が、全国47都道府県で1162署ですから、所轄によっては年間を通じて、一度も殺人事件が起こらないところが1割近くあるということです。
殺人専門の部署捜査一課が存在するのは警視庁だけ。
所轄には、凶悪犯罪全般を扱うセクションはあっても、殺人課という専門のセクションはありません。
これは、人口10万人当たりの発生率に換算すれば0.2人。
日本人にとっては、ヤクザでもない限り、殺人事件は極めて稀な出来事というわけです。
ちなみに、アメリカにおける殺人事件の件数は、2023年だけで18450件。
アメリカの人口は、およそ3億4000万人ですから、これを人口10万人当たりの発生率に換算すると5.3人。
つまり、日本の26倍です。桁違いですね。
銃社会のアメリカならではの数字ですが、日本視線で見れば、これこそシャレにならないくらいのブラックユーモアです。
僕は、今現在で65年生きていますが、これまでの人生で、殺人の被害にあったという知人は、幸か不幸か一人もいませんでしたし、もちろん加害者の知り合いもいません。
おそらく、残りの人生で、どちらの側の人とも知り合うことはないような気がします。
戦争を経験した人が多くいたころならともかく、戦後79年もたっていれば、人が人を殺すと言う行為は、日本人にとっては超レアケースであることは間違いなさそうです。
そう考えると、殺人事件なんてものは、ミステリーというクローズド・サークルの中だけで頻発する典型的な非日常だと思って然るべき。
おそらく、ミステリー小説が産声を上げて以来、実際の殺人事件の被害者の数よりは、ミステリー小説の中で殺された人の数の方が断然多いのではないでしょうか(日本に限った話)
なぜミステリーは面白いのか。
それはズバリ。人間が理性で封印してきた殺人という行為を、フィクションの中で代替してくれるからではないか。
ちょっとそんな気がします。
考えてみれば、名探偵自体が、フィクションの中にしか存在しない職業です。
少なくとも、難解な殺人事件の解決を生業にしている私立探偵という職業をリアルな現実社会で設定することは無理がありますね。
探偵といえば、リアル社会においては、あくまでも興信所の調査員のこと。
彼らには逮捕特権もなければ、警察手帳もない。我が国においては拳銃を保持することもできません。
名探偵コナンも、明智小五郎も、金田一耕助も、金田正太郎も、活躍できる場はあくまでもフィクションの中のみ。
そう考えると、古典ミステリーを笑い飛ばすパロディは、本来備わっているであろう殺人衝動を、理性でコントロールするように宿命づけられてきた人類の本能への、ささやかな清涼剤になっている気もします。
シャーロック・ホームズの昔からミステリー・ファンは名探偵が大好きです。
殺人衝動を抱えたまま悶々としている危うい現代人諸氏は、せめて本作を鑑賞して、そのストレスの雲散霧消に努めるべし。
それでも無理なら、ご自分でミステリー小説を書かれてみては。
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