今年になってから、綾辻行人の「十角館の殺人」以降の、いわゆる新本格派ミステリー・ムーヴメントにカテゴライズされる作品を読み漁ってきましたが、ここらで日本のミステリーのクラシックも読んでおこうという気になりました。
中学高校時代は、僕の世代のミステリ・ファンの御多分に漏れず、江戸川乱歩や横溝正史、大学生になってからは松本清張や森村誠一と作家別にハマっていきましたが、恥ずかしながら、この4氏以外のミステリーには、あまり触れることはありませんでした。
そこで今回チョイスしたのは、鮎川哲也作品です。
鮎川哲也は戦後の日本ミステリ界を代表する人物の一人です。
1948年から執筆活動を始めていますが、1956年にはじめて鮎川哲也名義で発表した本作でブレイク。
「アリバイ崩し」を得意とし、緻密なトリックと論理的な推理で知られる作品を数多く残しました
彼の作品はパズル的要素が強く、現代のブームへと繋ぐ本格ミステリーの名手として高く評価されています。
舞台設定や捜査過程には現実味がありながらも、犯行計画やトリックには非常に凝った人間の盲点を巧みに突いたアイデアが用いらるというのが彼の作品の特徴。
リアリズムと本格推理の融合のバランスが絶妙で、その作風は、本作にも如何なく発揮されています。
本作のテーマは、ズバリ「アリバイ崩し」です。
舞台に選ばれたのは、東京と北九州を結ぶ日本国有鉄道。今のJRです。
1956年に執筆された作品ですが、描かれた時代は1949年。昭和24年です。
これにはきちんとした理由がありました。
第二次世界大戦後、日本の航空産業はGHQの指令によって厳しい制限を受けており、民間航空の再開は遅れていたんですね。
しかし、1951年8月1日になって日本航空が設立され、同年10月25日には東京~大阪~福岡線を運航開始しています。これが戦後初の国内民間航空定期便の開始となります。
つまり、昭和24年時点では、日本国内の交通手段に、航空機はなかったというわけです。
これが本作のトリックのミソ。
作者は、このトリックを構築する際に、飛行機という飛び道具を排除したかったんですね。
つまり国鉄の時刻表のみで、緻密なトリックを構築したかったというわけです。
本作のアイデアの出発点となったのは、F.W.クロフツの「樽」だったということは、作者自身もあとがきで語っています。
しかし、もちろん本作は、「樽」の翻案にとどまっている作品ではありません。
当時の交通手段をトリックのネタに使おうと思った場合、世界に冠たる日本の国鉄の精密なダイヤを使用すれば、「樽」よりも数段緻密でリアルなトリックが展開できると彼は踏んだわけです。
本作は、トラック陸送や航路といった鉄道以外の交通手段も巧みに取り入れていますが、やはり何といってもメインとなるのは国鉄。但し、昭和24年当時の国鉄は、運輸省が管轄をしていたので省線と呼ばれていました。
国鉄ダイヤを巧みに使ったミステリーといえば、すぐにピンとくるのが松本清張の社会派ミステリー「点と線」。
これは映画も見ていますが、冒頭の東京駅で、別のホームから別の列車に乗り込む二人を目撃させるという、非常に短い時間差を利用した「空白の4分間」のアリバイ・トリックが秀逸でした。
こんなトリックが成立するのは、日本の国鉄の時刻表が正確無比であることが、広く人々に浸透していたゆえです。
「点と線」では、当時としてはまだ珍しかった飛行機による移動が、アリバイ作りに利用されていましたが、鮎川哲也氏はそれを潔しとせず、自分の考案したアリバイ・トリックを成立させるために、あえて時代を民間飛行機が飛んでいない昭和24年に設定したということだと思います。
そんなわけで、本作には、当時のリアルな実物時刻表がたびたび登場します。
Google 検索のなかった時代は、旅行を計画を練るのに、最新のポケット時刻表は必須アイテム。
実際に旅行にはいかなくても、時刻表を眺めているだけで、旅行をしている気分になれたものでした。
1949年の小説の世界を想像するのもなかなか楽しい作業でした。
読書をする時は、脳内シアターで映像化しながら読むという習慣があるもので、この時代を物語るような文化やグッズで映像が浮かばない単語が登場すると、iPhone を傍らに置いておき、マメにその単語を検索して画像をチェックしながら読み進めるようにしています。
僕はの生まれた1959年は、本作の描かれた時代の10年後。
今の若い人にはピンとこないものも、かろうじてリアルな記憶が残っているという世代かもしれません。
「インバネスコート」や「ミアシャムパイプ」あたりは、シャーロック・ホームズのファッションです。
あの時代にはそんなファッションの紳士もまだいたのでしょう。
しかし、あのパイプを使って喫煙している人は、今はもう絶滅危惧種と思われます。
新宿駅の「角筈口」という聞きなれない出口も登場しますが、これは現在の西口にあたるとAI が教えてくれました。
昭和24年当時は、まだそう呼ばれていたようです。
その他、リヤカー、オート三輪、馬車なんてのもまだこの時代の日本の風景の中には登場していました。
1949年当時の警察内部が舞台となる作品として、まずパッと浮かぶのは何といっても巨匠黒澤明監督の「野良犬」です。
この映画は、当時の東京の風俗も克明に描いていましたから、登場人物のファッションも含め、脳内映像化に当たっては、おおいに参考にさせていただきました。
映画「点と線」はカラー映画でしたが、脳内シアター版「黒いトランク」は、この「野良犬」の影響で、完全モノクロ映像でしたね。
作品の概要は以下の通り。
1949年12月10日、汐留駅で発見された腐乱死体入りのトランクから物語は始まります。
送り主とされる近松千鶴夫が後に溺死体で発見されるという展開から、鬼貫警部が独自の捜査を開始します
『黒いトランク』の魅力の一つは、人数こそ少ないものの、複雑に絡み合う登場人物たちの人間関係です。
主人公の鬼貫警部を中心に、大学時代の同期生たちが事件に関わっていきます。
そして、この登場人物たちの他に、最後の最後まで、パズルのピースとして、読者の脳裏で動き回るものがふたつ。
それが、「トランクX」と「トランクZ」と作品内で命名されるふたつの黒いトランクです。
犯人は被害者の遺体を入れたトランクを鉄道貨物として博多から汐留駅へ発送しました。
この移動方法は、犯人が現場にいなくてもトランクが目的地に到達する仕組みを作り上げています。
そして、犯人は遺体入りのトランクと空のトランクを用意し、それぞれ別の経路で移動させることで、事件発覚時に混乱を生じさせました。
このすり替えによって、遺体入りトランクの発送者と受取人が特定されにくくなり、犯人のアリバイの巧妙なアリバイ・トリックが警察を悩ませるという展開です。
トランク移動中、犯人自身は別の場所で確信犯的に行動しており、事件当時の不在証明(アリバイ)を巧妙に確保。
そしてこの考え抜かれたアリバイ工作を、時間軸の論理を破綻させることなく如何に鬼貫刑事たちが崩すか。
これが本作の醍醐味となります。
これらの要素が組み合わさることで、犯人は物理的な距離と時間差を利用した巧妙な犯罪計画を実現しました。
鬼貫警部は、地道な捜査と論理的推理によって、トランクの移動経路とアリバイ工作の全貌を明らかにします。
真相は非常にシンプルでありながらも思考の盲点になっており、明かされてみれば「灯台下暗し」のような驚きを読者に与えます。
どんなに論理的にしっかりしていも、わかりにくいものを読者は嫌います。
傑作ミステリーが成立する重要な要件ですね。
このような鉄道や物流を利用したトリックは、『黒いトランク』が発表された当時としては非常に斬新であり、本格ミステリーとして高い評価を受ける理由になっています。
トラベル・ミステリーといえばなんといっても西村京太郎氏が有名ですが、彼が推理作家としてデビューするのは、本作発表の5年後。1961年のことです。
本作には主人公の鬼貫刑事が、過去に思いを寄せた女性を容疑者の妻に設定していますが、本作の初稿にはこの人物設定はなかったとのこと。
つまり、初稿段階では、完全に論理構築以外の余計な要素は排除した純粋本格ミステリーだったんですね。
西村京太郎氏のトラベル・ミステリーは、十津川警部シリーズとして、二時間ドラマで多く取り上げられましたが、男女の愛憎劇は必須の要素でした。
しかし、鮎川氏の描いた男女の関係は、拍子抜けするくらいに実にあっさりしたもの。
この作家は完全に理系で、彼の興味は、人間ドラマよりは、論理的なトリック構築に向いていたのかもしれません。
作者は、本作のトリックのプロットを構築中、マッチ箱を二つ用意して、東京ー博多間を脳内移動させながらイメージを膨らませたといいます。
新幹線がまだないこの時代、東京博多間は、あしかけ三日を要する長旅でした。
この当時の距離感をリアルに映像化した映画がありましたね。
昭和33年製作の野村芳太郎監督の「張り込み」の映画タイトルが出るまでの冒頭12分間。
二人の刑事が東京から佐賀県まで、犯人を追って列車で向かう道中が克明に描かれていました。
当時の鉄道旅行の様子を知る上で、この映画も大いに参考になりました。
昭和24年を舞台にしている以上、やはり本作には戦争の背景も色濃く反映されています。
真犯人が原爆投下時の広島にいたことや、玉砕という言葉が初めて使われたアッツ島守備隊全滅に影響を受けたこと。
そして、ここで詳しくは述べませんが、真犯人が殺人を犯すに至った動機です。
これは、この時代の戦争経験者でなければ成立しないものでした。
本作の執筆された1956年は、ちょうど日本の高度成長期が始まったばかりの頃です。
まだ本作の戦争を背景にした登場人物たちの心象風景は、リアルに受け入れられた時代だったかもしれません。
著者・鮎川哲也が黒縁のべっ甲眼鏡をしてベレー帽をかぶっている近影は、漫画家手塚治虫に雰囲気がよく似ています。
ちなみに、死体をトランクに詰めてJRに預けると、問われる罪は殺人罪以外では以下の通り。
死体遺棄罪、死体損壊罪(刑法190条)、偽計業務妨害罪(刑法233条)、貨物自動車運送事業法違反。
殺人の罪を犯された皆様におかれましては、死体を詰めた黒いトランクをJRで送ることは是非とも控えられますように。
まず間違いなくアリバイ工作を疑われますので。
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