本作は、作者にとって初の警察ミステリー作品であり、2023年に発表されるやいなや「このミステリーがすごい!」「ミステリが読みたい!」「週刊文春ミステリーベスト10」の国内ランキングで1位を獲得し、ミステリーランキング三冠を達成したというまさに今が旬のミステリーです。
5つの物語からなる短編集で、群馬県警を舞台にしています。
主人公は、捜査一課の班長である葛(かつら)警部。
彼は上司や部下からの評判は芳しくないものの、卓越した捜査能力を持ち、鋭い着眼点で事件を解決していきます。
収録されている5編は以下の通り。タイトルはすべて3文字です。
- 「崖の下」: 雪山での遭難事件。犯人が特定されているが凶器が見つからないという謎。
- 「ねむけ」: 目撃証言に潜む謎。
- 「命の恩」: バラバラ遺体遺棄事件。犯人の動機に驚かされる展開。
- 「可燃物」: 連続放火事件を扱う。犯行が突然止まった理由を探る。
- 「本物か」: ファミリーレストランでの立てこもり事件
作者の作品では、「インシテミル」はすでに読了していますが、ミステリー小説としての、そのスタイルはかなり違います。
『インシテミル』:は、主に「フーダニット(誰が犯人か)」と「ハウダニット(どうやって犯行が行われたか)」に焦点を当てていました。
登場人物たちが互いに疑心暗鬼になりながら、犯人を探し出す過程が描かれていました。これに対して本作では、 「ホワイダニット(なぜ犯行が行われたか)」に重きを置いています。
特に犯行動機を深く掘り下げることで、人間心理や社会的背景を浮き彫りにしています。
また、「インシテミル」では、主人公の一人称視点で語られ、登場人物たちの個性や極限状況での心理描写が強調されます。
しかし、本作においては、主人公・葛警部は完全に第三者的視点で描かれていて、彼の冷静な観察力と推理力が物語を進めます。
彼自身は感情をあまり表に出さず、職務的な態度で事件に臨むため、より客観的な捜査描写を意識して描かれています。
この葛警部に感情移入できるかどうかは、それぞれの見解があるかと思いますが、作者はかなり意図的に、この主人公を冷徹でブラックな仕事人間として描いています。
疲労困憊な部下たちをさらに鞭打つような人使いをしておいて、自分はしっかりと睡眠をとっているというような描写も出てきて、いかがなものかと思わせてくれますが、本人はいたって正論を吐きます。
指示するものが寝不足で脳がまともにまわらず、とんちんかんな指示を出すことで、事件の解決を遅らせることの方が問題というわけです。
確かにどのエピソードも、最終的には葛警部が事件の真相を導き出しますので、こき使われる部下たちもそれで救われますが、個人的には、葛警部のこんなキャラが案外嫌いではありません。
この葛警部に対して、名探偵ものによくあるように、必要以上に人間的魅力をアピールするエピソードを挿入して、この人物のキャラを膨らませようということを作者は一切しません。
部下たちには、事件解決に必要な証拠や証言集めを的確に指示し、必要であれば自分も一緒に出向くということの繰り返し。
睡眠時間こそ確保しますが、全5話を通じて、葛警部が口にするのは、菓子パンとカフェオレだけ。
プロフェッショナルではありますが、決して非人間的ではないという微妙な描き方をしています。
とにかく、警察組織内での捜査手法や刑事たちの行動は非常に丁寧に描かれています。
例えば、張り込みや聞き込みといった地道な捜査活動がリアルに再現されており、これが作品全体に現実感を与えています。
また、警察内部の意見の相違や組織的なしがらみも描かれており、読者に「現場感」を感じさせる要因となっています。
「太陽にほえろ!」や「西部警察」で僕ら世代が植え付けられた警察のイメージをかなり現実に近いところまで引き戻してくれたのが「踊る大捜査線」だったと思いますが、そこからさらにエンタメ部分を差っ引いて、重厚な警察ミステリーを描いたのが本作ということでしょう。
本作には「インシテミル」にあったような非現実的な部分は皆無で、警察の上下関係、捜査会議のリアリティ、Nシステムなどの専門用語や監視カメラやスマホの分析など、そのディテールには徹底的にこだわっています。
今のテクノロジーを踏まえた、警察の事件捜査手法については、綿密な取材が行われたものと想像します。
まだAI は登場しませんが・・
その上で、作者は、読者に対して手掛かりをフェアに提示することを重視しています。
葛警部は、事件を推理する時に、すべての証拠やデータを紙ベースでアウトプットし、そのすべてを自分の周りに並べて考えるというスタイルに固執します。
コンピューターやネット関係のことは得意な部下に任せたりしているので、本人自身はどこかアナログなんですね。
しかし葛警部は感情を表に出さない冷静なキャラクターでありながら、その推理力や行動には説得力があります。
これがあるからこそ、部下たちも黙って彼に従っているわけですが、プライベートで付き合うのはやはりノーサンクスな上司でしょう。
もちろん、葛警部が部下と居酒屋で一杯やるという様な余計なシーンは、一切登場しません。
でも本当に能力のあるプロフェッショナルなら、それでいいと個人的には納得。
5つのエピソードの中で、個人的に秀逸だなと思ったのは、第二話の「ねむけ」でした。
よく出来た短編は、トリックの切れ味が光るものですが、結末が読めなかったのはこの第二話と、唯一「ハウダニット」が描かれた第一話だけ。
この2編で、本作のクセが見えてくると、第3話から第5話は、おぼろげに結論は推測可能でした。
短編集は通常一番秀逸と思われるエピソードが表題作になるものなので、個人的には「ねむけ」にしてもらいたいところでしたが、さすがにこれではいくら米澤穂信作品でも売れそうにありません。
タイトルは「可燃物」でやむなしだっだったかも。
コメント