まだまだ見ていいないクラシックの傑作映画はたくさんあるなあとつくづく思います。
本作は、1948年に公開されたイタリアのネオリアリズモ映画。
ルキノ・ビスコンティやロベルト・ロッセリーニなどと並び称されるイタリアの名匠ヴィットリオ・デ・シーカ監督の作品です。
まず、白状しておきましょう。
だいぶ早い時期から本作のDVDは持っていましたが、見ていなかった理由を申し上げておきます。
それは、本作には、美人女優が一切登場しない。この一点につきます。
ディズニー映画や、多くのアニメ映画に昔から興味がないのも、同じ理由でしたね。
個人的には昔から、映画という娯楽は、日常ではお目にかかれない美女を堪能するエンタメだと思っているところがあります。
そういう不届きな目的で映画を選んでいると、こういう名作を見る機会はなかなかありません。
助平爺としては大いに反省です。
残り少ない人生ですので、そろそろ心を入れ替えて、こういう地味な名作にもどんどん触れていこうと思った次第。
この映画は、戦後のローマを舞台に、貧しい父親が盗まれた自転車を探すという物語を描いています。
主人公アントニオ・リッチは、戦後の経済的困難の中でようやく手に入れたポスター貼りの仕事を始めるため、自転車が必要になります。
妻マリアが結婚持参金として大切にしていたシーツを質入れして自転車を手に入れますが、その自転車がなんと仕事初日に盗まれてしまいます。
アントニオは息子ブルーノと共にローマ中を探し回りますが、自転車を見つけることはできません。
最終的にアントニオは追い詰められ、自分自身も他人の自転車を盗もうとしますが失敗し、人々に捕まります。
しかし、自転車の持ち主が息子ブルーノの泣き顔を見て同情し、アントニオを解放します。
映画は、父と息子が手をつないで人混みの中を歩き去る場面で締めくくられます。
なんとも、胸をしめつけられる切ないラスト。
本作は公開当時、イタリア国内で賛否両論を巻き起こしたようです。
ローマのメトロポリタン劇場での上映では、観客から否定的な反応が多く、一部ではチケット代の返金を求める声も上がりました。
なんとなくわかる気もします。
あれだけ陽気なイタリア人が、いくら当時の偽らざる現実とは言え、これだけ救いのない暗い映画を見せられてしまっては、たまったものではないというところだったのでしょう。
辛い現実を忘れるために映画という娯楽を求めにいってるのに、反対に辛い現実を突きつけられてしまったのでは、チケット代を払っている意味がないということなのでしょう。
カトリック教会系の批評も特に厳しかったようです。
カトリック系新聞紙は、映画の公開自体にまで疑問を呈したとのこと。
また、 左派知識人からも批判があり、主人公の孤独で絶望的な行動が、階級間連帯の不可能性を示しているとして非難されました。
映画批評家たちは、一応映画は称賛しつつも、「センチメンタルすぎ」と指摘。
また、本作の原作小説を書いたルイジ・バルトリーニからも、自身の作品が中産階級の知識人を主人公とした内容であっものを、徹底的に庶民の映画に脚色されたことを裏切りと感じて痛烈批判。
本作の国内評価は、けっこうボロボロだったようです。
しかし、本作は、海外では非常に高い評価を受けました。
フランスやアメリカなどでは映画のリアリズムと普遍的なテーマが称賛され、これが後に世界に伝播していきます。
このように、本作はイタリア国内ではそのテーマや描写方法が議論を呼びましたが、後にその革新性と芸術性が広く認められ、ネオレアリズモ映画の代表作として評価されていくという経緯をたどります。
このあたり、日本の黒澤明の評価と通じるところがあります。
イタリア映画界で生まれたネオレアリズモは、1940年代後半から1950年代にかけて戦後の社会現実を直視した画期的な芸術運動として展開されました。
第二次大戦後の廃虚と社会再建の過程で、ファシズム体制下の虚構から脱却し「現実をありのままに描く」ことを理念としたこの潮流は、映画史に革命的な影響を残すことになります。
ネオリアリズムは、現実直視の姿勢が最大の特徴。
戦争後のイタリア社会を忠実に再現し、貧困や失業、労働者階級の日常生活を丹念に描いていきます。
これにより、従来の人工的で理想化された物語とは一線を画す物語が生まれていくことになります。
映画はスタジオではなく、実際の街並みや田舎など、多くのシーンはロケで撮影。
これにより、戦争後の荒廃した環境がそのまま作品に反映されました。
当時のイタリア社会が直面していた貧困問題に、本作を真正面から向き合っています。
ハリウッド的なドラマティックな展開とはまったく異なるアプローチが意識的に取られているわけです。
また、リアルな感覚を追求するため、本作では非プロフェッショナルな俳優が起用されました。
これにより、登場人物には圧倒的なリアリティが与えられることになります。
本作でアントニオを演じたランベルト・マッジョラーニも、元々ローマの工場で働く旋盤工。
俳優としての経験はありません。本作では主役に抜擢されていますが、映画俳優としては成功していません。
そして、子役のブルーノを演じたエンツォ・スタヨーラも、もちろん素人。しかし、その演技は絶品でした。
我が国の子役たちの演技が、実に「芝居臭い」のに対し、実に自然な演技をして、思わず感情移入させられてしまいます。
これは、本人の演技力というよりも、それを引き出したスタッフたちの演出力の賜物でしょう。
このスキルは、トリフォー監督の「大人は判ってくれない」のアントワーヌにもしっかりと引き継がれていそうです。
イタリアも、第二次世界大戦においては、日本と同じく敗戦国でした。
ですから、戦後は連合国による占領を経験しています。
1946年6月には、国民投票で王政を廃止し共和制へ移行。
新憲法が制定されたのは、本作が作られた1948年のことでした。
アメリカは、ヨーロッパ経済に立ち直ってもらわないと、借金を返してもらえなくなるので、積極的に各国に経済援助をします。
これがマーシャルプランです。この援助を受けて、イタリアは1950年代に、奇跡的な経済再建を果たします。
そして、NATO加盟(1949年)で西側陣営に加わり、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)加盟で欧州統合にも参加。
急速に、国際社会へと返り咲いていきます。
1960年代につくられたフェデリコ・フェリーニ監督の「甘い生活」「8 1/2」などを見ると、これが本作が作られたイタリアと同じ国かとわが目を疑いたくなるような経済発展を遂げているのに驚かされますね。
このように、イタリアは20年以上にわたってファシズム体制から、複雑な過程を経て克服の民主主義国家として生まれ変わりました。
ネオレアリズモは単なる映画運動ではなく、間違いなく戦後イタリア社会そのものを映し出す鏡でした。
その革新性と影響力は、映画史の流れを深掘りすればするほど、高く評価されそうです。
資金はなくとも、環境が整っていなくとも、スタッフたちの創意工夫と熱意があれば、これだけの傑作が出来るという見本のような作品。
美人女優が出ていなくとも、居住まいを正して鑑賞すべし。
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