道尾作品を読んだのは「向日葵の咲かない夏」「シャドウ」に続き、これが3作目です。
選書に関しては、YouTubeの読書系ユーチューバーの推薦を参考にさせてもらうことが多いのですが、本作を推す方はけっこう多かったですね。
コンゲームを扱った作品で、どんでん返しと張り巡らされた伏線が秀逸であるということだけは、みなさん口をそろえておっしゃっていたので、そこのところは意識して読み始めました。
とにかく、騙されるのと、驚かされるのは大好きです。
プライベートとなると、どちらも勘弁してほしいところなのですが、ミステリー小説となれば話は別。
その快感がたまらなくて、ミステリー小説を読んでいるようなところがあります。
なので、過去に映像化されていて、結末がわかってしまっている原作本は基本的にスルー。
ネタバレありの書評もパスをして、出来る限り頭は真っ白にして、作者渾身のサプライズを楽しむようにしています。
本作は2008年に発表され、第62回日本推理作家協会賞を受賞し、直木賞候補にも選ばれた道尾秀介の代表作の一つです。
2012年には、阿部寛主演で映画化もされていますがこちらは未見。
Amazonプライムのリスト(有料コンテンツ400円)にもあるようなので、機会があれば見てみることにします。
本作の主人公は人生に敗れ、詐欺を生業とするようになってしまった中年男性コンビ、武沢竹夫(タケさん)と入川鉄巳(テツさん)。
ある日、彼らの生活にスリを生業とする少女・河合まひろが加わり、その姉やひろや彼女の恋人・石屋貫太郎も同居することになります。
そして、そこに加わる1匹の小猫(トサカ)。
この5人と1匹が、一軒家で奇妙な共同生活を送りながら、過去の因縁や闇金組織と対立していくことになるというのが、本作の基本ストーリー。
物語は、彼らが抱える暗い過去や複雑な人間関係が徐々に明かされていく中で進行し、飼い猫のトサカが組織の手によって殺されたことから、彼らは「我慢する」のを止め、闇金組織に対して敢然と立ち上がります。
もちろん暴力では勝ち目がないので、彼らが選んだ手段は、組織をペテンにかけて大金を巻き上げること。
はたして、一発逆転を狙った彼らの計画は成功するのか。その結末や如何に。
本作はミステリーというよりは、人間ドラマやユーモアも織り交ぜたエンターテインメント作品として成功しています。
特に物語終盤の二転三転のどんでん返しは圧巻。
とくに、張り巡らされた伏線が見事に回収されていくラスト30ページは、読み応え充分です。
その秀逸なプロット構成に、まずは拍手を送りたいところです。
さて、コンゲームを扱った作品として、今でも最高傑作の誉れ高いのが、1974年のアカデミー賞作品賞にも輝いた「スティング」。
詐欺や騙しを扱った後の作品で、「スティング」の影響を受けていない作品はないと断言します。
もちろん本作もまた然り。
ちょっと比較してみます。
『スティング』は、複雑な騙し合いや「計中の計」を軸にしたストーリーが特徴。
観客自身が最後まで真相を見抜けない仕掛けが高く評価されたのはご存じの通りです。
『カラスの親指』も、まず詐欺師たちが策略を協議し、組織の現金奪取まで突っ走る展開は、普通に用意されます。
しかし、『スティング』を見た人なら、最初のクライマックスまでなら普通に予想出来てしまうはずだと、作者は読み切っています。
そんなコンゲーム通の読書を唸らせるなら、そこからさらにひっくり返さないと合格点はもらえない。
大傑作のエキスを大いに参考にしつつ、作者は、そこからさらに物語をひっくり返してみせます。
『スティング』は、映画の観客自体をも騙す「メタな構造」が革新的でした。
『カラスの親指』でも、読者にあらかじめ提供されていた情報に、巧妙な「叙述トリック」が用いられており、これがラストの二転三転のどんでん返しを可能にしています。
『スティング』では、友人を殺された詐欺師が組織への復讐を企てますが、『カラスの親指』では、高利貸し業者への報復が物語の原動力となっています。
道尾作品では、それに加え、「社会的弱者による反撃」という社会派的なテーマがより強調され、ラストのカタルシスへの原動力となっていますが、物語はそれだけでは終わらない。
そこからさらにひとひねりしてくるのが道尾氏のスゴイところです。
ただ、予想もつかないラストで驚かせるのではなく、この素人集団による復讐劇を、どのようなカタチで終わらせれば、爽やかな読後感を読者に与えられるのかを、周到に練り上げているのが見事でした。
両作品に明らかに共通しているのは、犯罪の深刻さと軽妙なユーモア(特に詐欺師たちのコミカルなやり取り)を同居させた作風です。
道尾秀介はインタビューで、「犯罪小説に笑いを織り込む難しさ」に言及していましたが、このあたりには『スティング』のような古典的エンタテインメントからの影響は大いにあったと推測されます。
特に、物語のラストで「全てが繋がる」カタルシスは、両作品が共有するエンタテインメント性の核心と言えると思います。
本作は、日本の社会問題(サラ金被害など)をテーマにした独自性が秀逸ですが、コンゲーム作品としては、そのお手本ともいえる『スティング』のエッセンスを現代的な文脈で再解釈した作品と評価してもよさそうです。
もうひとつ比較してみましょう。
去年読んだミステリーで、コンゲームを扱った作品を一つ思い出しました。
ジェフリー・アーチャーの「百万ドルを取り返せ」です。
稀代の詐欺師に百万ドルを騙し取られた投資家たちが、それぞれの才覚を持ち寄って、これを取り戻そうというお話です。
アーチャーの主人公は「個人の才覚」に依存し、法の枠外で独自の正義を貫こうとする傾向が見られます。
これはアメリカの「個人主義」や「自力救済」の精神(なにせフロンティア精神の国ですから)に通じ、詐欺を「ゲーム」として捉える合理主義的な視点が特徴です。
これに対して、道尾作品では、主人公が「周囲との関係性」の中で策略を練ります。
例えば家族や職場の人間関係が鍵となり、詐欺が「集団の倫理」や「義理」と絡む点がいかにも日本的です。
解決策も「個人の勝利」より「社会的調和の回復」「チームワークの勝利」を重視します。
個人技のアメリカと、チームワークの日本というのが、実に興味深いところ。
また、どちらの作品も、犯罪や不正を題材にしながら「人間の複雑さ」を描き、善悪を単純に二分しない終わり方にこだわっています。
しかしながら、アーチャーの結末は「劇的な逆転」や「カタルシス」を重視し、主人公たちの勝利を明確に提示します。
これはハリウッド的エンタメ性や「結果至上主義」に通じ、読者に「爽快感」を与えることを意識した構造です。
それに対して、本作のカタルシスは、少々味わいが違います。
本作は、モラルに関しては、かなりデリケートな扱いになっています。
主人公の五人とも、軽犯罪を生業にしている小悪党たちですが、それをユーモアには転嫁していても、けして彼らの行為に正当性は持たせていません。
暗いテーマを扱っているにもかかわらず、作者は本作を救いのない犯罪ドラマにはせずに、登場キャラ一人一人の更生と成長のドラマにしているのが好感の持てるところ。
「百万ドル~」が、個人の才覚と合理主義が生む「ゲームとしての犯罪劇」だとするなら、本作は、集団の倫理と情緒的調整が織りなす「人間ドラマとしての犯罪劇」だといえそうです。
本作を読みながら、これは伏線になっているぞと反応した箇所は、メモに書き出しながら読んでいました。
そして、それが回収されたら赤線で消していくわけです。
もちろん、伏線になっていることに気がつかない描写も多々ありましたが、ラスト30ページで、書き出した伏線がどんどん赤線で消されていくのは実に快感でした。
本作の中にあった印象的な一文です。
「人間の指の中で、残り4本の指すべてと面と向かい合えるのは親指だけ。」
さあ、果たして、この詐欺師チームの中で、親指はいったい誰だったのか。
本作は痛快なコンゲームを描いた「ハウダニット」の傑作かと思いきや、実は「フーダニット」の秀作でもありました。
本作の発表された10年後に書かれたのが本作の続編「カエルの小指」。
これはすでに、iPadに仕込み済み。彼らとまた会えるのが楽しみです。
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