本作は、殊能将之による1999年発表のデビュー小説で、第13回メフィスト賞を受賞した作品です。
ジャンルは新感覚ミステリー。特にその大胆かつ精緻な構成と予想外の結末が秀逸な作品でした。
彼の作品は、ミステリーの定石を踏まえつつ、それを大胆に再構築する仕掛けが特徴。
表面的にはオーソドックスな本格ミステリーでありながら、その背後に「常識を超えた真相」を隠すなど、物語に深みを与える二重構造が魅力です。
饒舌な文体や独特のユーモアが作品全体に漂い、読者を楽しませる一方で、文学的な深みも兼ね備えていました。
ミステリーにSF的要素や哲学的テーマを取り入れ、これらの要素が、彼の作品を「普通ではない」独特な存在感を際立たせ、多くの読者や批評家から高く評価される理由となりました。
彼の作品は論理性と遊び心を融合させた「アンチミステリ」と呼ばれ、独特の作品世界を構築していましたが、殊能氏は、2013年に惜しくも他界されています。
さて、平成以降のミステリーを読む時は、執筆された時代のインターネット文化や、使用モバイルなどは結構重要な背景になってきます。
ですのでその作品が書かれた時期は、意識するようにしています。
本作は、2003年が舞台になっていますが、1999年に発表されているので、執筆されていたのは1998年頃でしょう。
1998年は、ざっとこんな時代です。
インターネットとモバイル技術は「デジタル革命」の胎動期を迎えていました。
家庭のインターネット接続は56kbpsのダイヤルアップが主流で、接続時には「ピーヒョロロロ」という特徴的な電子音が鳴り響きました。懐かしい ! (遠い目)
そして、電話回線を占有してしまうため、接続中は「電話が使えない!」と苦情が飛ぶことは日常茶飯事。
深夜の割引料金帯を狙って夜中にネットサーフィンする「ナイト族」も出現していました。
インターネット文化の基礎が徐々に形成されつつあった時代です。
携帯端末はポケベルからPHS/携帯電話への移行期。
NTTドコモがiモードサービスの提供を翌年に控え、データ通信社会の到来を予感させる中、当時の携帯電話は白黒液晶が主流で、主な機能は通話と短文メールに限定されていましたね。
まだTwitterも、Line もありません。
日本ではPHSが比較的普及し、街中で手のひらサイズの端末を使うビジネスパーソンの姿が目立つようになります。ただし通信エリアは都市部に集中し、「圏外」表示との闘いが日常的な光景でした。
そして、この年マイクロソフトから発売されたWindows 98は、USB対応など新機能で話題を呼びました。
平均的なPCのスペックはCPU 200-300MHz、メモリ64MB、HDD数GB程度。
重厚なCRTディスプレイが机の上を占領し、起動時の「ブーン」という駆動音が部屋に響いていました。
画像の読み込みに数十秒かかる中で育まれた「待つ文化」があたりまえで、これが現在のデジタル社会の原型を作り出したと言えるでしょう。
当時僕は、パソコンのセットは一式そろえ、ニフティのパソコン通信サービスでとあるフォーラムの管理人をやっていました。
月額基本料金に加えて接続時間に応じた従量制の料金を支払って、せっせと書き込みをしていた時代です。
ですから、インターネットはまだ最先端の人たちの独占物で、僕のようなミーハーは、その一部をいじりながら一人で悦に入っていたような記憶です。
ようするにSNSもなければ、スマホもない時代。
これはまずしっかりと頭に入れておくべきでしょう。
しかし、世の中は大きく変わっても、起こる殺人事件に差はありませんでした。
本作に使われる凶器はハサミです。
物語の舞台は2003年の東京。女子高生2人が喉に鋭利なハサミを突き立てられて殺害される事件が発生し、マスコミは犯人を「ハサミ男」と名付けます。
主人公である「ハサミ男」は、連続殺人犯として世間を騒がせる一方、3人目の犠牲者を選定し準備を進めていました。
しかし、彼が狙っていた女性が、何者かによって自分の手口を真似されて殺害されてしまいます。
この事態に困惑したハサミ男は、真犯人を突き止めるため独自に調査を開始します
本作の主人公であり探偵役となるのが、なんとシリアル・キラー自身というのが、まず意表を突く設定。
誰が、自分のスタイルをパクった模倣犯なのか?
本家としては心中穏やかではないというわけです。
それにしても、とにかく得体のしれないのが、この「わたし」という主人公のキャラクター設定です。
主人公は、自分自身に対する強い嫌悪感を抱いており、その結果として自己破壊的な行動に走ります。
肥満体型であることなど、自分の外見や存在そのものに対して否定的な感情を持っているようです。
物語では、主人公が殺害する行為が、彼自身の自殺の「代替行為」であるようにも見えてきます。
主人公は、毎週土曜日にさまざまな方法で自殺を試みます。
例えば、毒物を飲んだり窒息を試みたりするのですが、それでも生き延びてしまうという状況が繰り返され、これがまるでスラップスティック・コメディのようで、悲壮感はまるでなし。
そして、主人公が、自殺未遂をする度に現れる「医師」という別人格。こいつが曲者です。
この「医師」は、主人公の行動や心理状態を客観的に分析してみせます。
この「医師」の存在は、主人公の内面的な葛藤や精神的な分裂を象徴しているとも読め、自殺願望と深い相関関係がありそうです。
別人格ということになれば、まず頭に浮かぶのは解離性人格障害。
ストレスやトラウマ体験をきっかけに、記憶・意識・アイデンティティが一時的に分断される状態で、ミステリーではおなじみの設定。
通常は、幼少期の虐待や、戦争、事故などの強いトラウマが原因になるパターンが多いのですが、本作ではこの部分は完全スルーです。
その点は、読者が勝手に想像するのみとなります。
しかしながら、主人公視線の生活ぶりは、実に淡々としていて、美味しいものを普通に食べ、ファストフード店の第一法則や、第二法則を自慢げに語る描写にシリアル・キラーの面影はありません。
そこに唐突に自殺未遂を図る様子が挟み込まれ、ビックリさせられますが、その理由については説明はなし。
シリアルキラーに至った経緯についても本編では一切触れられません。
しかし、ハサミ男は世間ではニュースになっていて、テレビのワイドショーの分析聞いている本人自身がまるで他人事のようです。
普通に考えれば、そうお目にかかれるはずもない連続殺人犯が、小説の中においてはなんとも違和感なく普通に存在しているという奇妙な感覚が、本作では最後のページまで貫かれています。
主人公は、将来に対して何の夢も希望も持たないフリーターとして描かれていますが、さりげなく描かれていくのはその高度の知能と社会適応能力。
バイト先の出版社においては、有能な仕事ぶりを発揮しており、フリージャーナリストを装って、由紀子の友人や家族、関係者たちに接触したりもしているなかなか出来るやつです。
そこに、事件の捜査を担当する警察署で自然発生的に結成されるメグロ・ストリート・イレギュラーズと、そこに警視庁から出向してきたプロファイリング専門の警視正がからんで、次第に明らかになってくる真実。
とにかく、この得体のしれない主人公を飲み込めないと、この物語にはついていけません。
ふと思い出してしまったのが、道尾秀介氏の「向日葵の咲かない夏」というミステリーでした。
2008年の作品でしたが、こちらもかなり新感覚で度肝を抜かれました。
なにが似ていたのか?
この物語の序盤で登場したのが、首つり自殺をした小学校のクラスメイトが憑依したクモです。
これが「気のせい」や「夢」ではなく、きちんと設定されたミステリー小説のキャラクターとして、主人公の少年と絡んでいくという展開。
ミステリーとホラーの境界線をあえて曖昧にした道尾氏のまさに「新感覚」でした。
あの小説のクモが、本作の医師と、見事に重なったわけです。
少々深読みをしてみます。
両作品のキャラクターは、主人公が直面できない心理的苦痛(自殺衝動や友人への罪悪感)を「目に見える存在」として外在化したものと読むことは可能でしょう。
「医師」は自殺未遂の度に現れる「死の誘惑」の象徴であり、主人公が自傷行為を正当化するための「内なる声」が擬人化された存在として描かれているように見えます。
これに対して、クモに「乗り移った友人」は、主人公が自殺した友人への責任感や後悔を、超自然的な存在に転嫁することで現実から距離を取ろうとする心理的プロセスを反映するという効果を産んでいました。
超自然的な存在(クモ)や妄想(医師)を介して、主人公の内面を可視化することで、読者は事件の背後にある「心理的動機」に接近できます。
「向日葵の咲かない夏」でクモが真相を囁く描写は、主人公の無意識が事件の核心に近づいていることを暗示し、読者の推理に層を加えます。
これと同じ役割を、本作の「医師」も確実に担っています。
そして、現実と幻想の境界を曖昧にすることで、作者が意図的に読者の視点を操作しやすくなっているというのもポイント。
クモの存在による、「超現実的か心理的現象か」の不確定性が、伏線の隠蔽や意外性の演出に貢献したように、医師の存在も、同じく結末での真相の衝撃を確実に増幅させています。
これは、巧みに本作に仕掛けられた叙述トリックを際立たせる効果もありましたね。
そしてもう一点。
死や罪悪感といった重いテーマを、このような象徴的でファンタジーな存在で表現することで、物語に哲学的・心理的な深みを生むということにも貢献しています。
「医師」も、クモも、単なるプロット上の装置ではなく、「生きることの意味」や「記憶の不可逆性」といった普遍的な問いを読者に投げかけてくるわけです。
これにより、ミステリーの「謎解き」を超え、人間の心の闇を描く文学性が高まるという仕掛けです。
本格ミステリーを愛するファンの反応は微妙でしょうが、頭の柔らかい若いファンには、「新感覚ミステリー」として、普通に受け入れられるのでしょう。
道尾秀介氏は、おそらく「ハサミ男」の影響を受けつつ、幻想と現実の交錯を独自のスタイルで昇華させ、読者に「心の闇」と「真相」の両方を追わせる二重の緊張を生み出すことに成功したという気がするわけです。
人間の心の闇を、見事にエンターテイメントに昇華させたという意味では、本作は画期的な作品だったかもしれません。
さて、ハサミ男とはいったいなにものなのか?
このタイトルを聞けば、誰もが、霧深いロンドンの街に出没して娼婦たちの腹を切り裂いた「切り裂きジャック」や、電気のこぎりで人間の皮膚を切り裂いて、はく製にしたエド・ゲインを思い浮かべるかもしれません。
日本でいうなら、連続幼女誘拐殺人事件の犯人である宮崎勤のようなロリータ系オタクキャラでしょうか。
しかし、このタイトルだけから連想してしまうミステリー・ファンならではのステレオ・タイプ的犯人像は、まずは白紙にしておくことをおすすめします。
作者によるミスリードは、すでにそこから始まっていますので・・
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