古典ミステリーのファンを名乗るなら、読まずには死ねない一冊が本作です。
言わずと知れたミステリーの女王アガサ・クリスティ女史の記念すべきデビュー作が「スタイルス荘の怪事件」。
アガサ・クリスティで最初に読んだのは「オリエント急行殺人事件」でした。
そして、これを原作にしたシドニー・ルメット監督の映画を見たのが1974年。
そこから立続けに制作されたアガサ・クリスティ原作の映画化「ナイル殺人事件」「クリスタル殺人事件」「地中海殺人事件」を見てから、「情婦」「そして誰もいなくなった」とクラシック映画も鑑賞。
アガサ・クリスティの世界は、映画オタクとしては、まずはビジュアルから入りました。
テレビ・ドラマシリーズで、ミス・マープルを演じた女優は何人かいますが、僕がお気に入りだったのはジョーン・ヒクソンが演じたミス・マープル。
彼女の演じたシリーズは、ほぼ見ています。
エルキュール・ポワロの方は、デビッド・スーシェの演じたテレビ版ですね。
ですから、エルキュール・ポワロのビジュアル・イメージはやはり彼の風貌と重なります。
定年退職後は、再び小説に舵を切り直し、「そして誰もいなくなった」「アクロイド殺し」「ABC殺人事件」と読み進めてきました。
古典ミステリーだけでは頭が進化しないという気にもなり、最近は直近10年でベストセラーになったミステリーにも、手を伸ばすようになりましたが、さすがに古い頭ではついていけないような特殊設定ミステリーや、最新のデジタル機器を駆使したトリックには、Google 検索で勉強しながらの読書。眼をシロクロさせながら格闘いたしました。
今回久しぶりにアガサ・クリスティの小説を手に取ったのはある意味では、そんな頭のリセット。
本作は今から一世紀以上も前の小説であるにもかかわらず、まずはその読みやすさにホッとしてしまいました。
多感な頃に「名探偵ホームズ」と「怪盗ルパン」で育んだミステリー・リテラシーは、この老体に深くしみ込んでいるようで、気分は完全に第一次大戦中のイギリスの片田舎にタイムスリップ。
「小さくて丸い愉快なおじさん」エルキュール・ポワロの名推理は、2025年になってもきちんと堪能できたことはうれしい限り。アガサ・クリスティは、今読んでもちゃんとアガサ・クリスティでした。
『スタイルズ荘の怪事件』は、1916年には既にほぼ完成していたとのことです。しかし、完成後、この作品はあちこちの出版社に送られたものの、全く陽の目を見なかったと記されています。
そして、作品がようやく出版されたのは1920年になってからのこと。
この年は、文学作品の一ジャンルとして書かれてきた「探偵小説」が、推理やトリックといった純粋な謎解きを楽しむためのジャンルへと転換し、ジャンルとして確固たるものになった「探偵小説の黄金時代」の始まりとされており、クリスティはまさにそのタイミングで作家デビューを果たしました。
本作の発表当時、当然のごとく、クリスティの名前はまだ世に知られていませんでしたが、その緻密な構成と巧妙なトリックは、その後の彼女の成功を予感させのに十分な内容。
彼女の長編処女作にNGを出した、当時の出版社の担当者がその後の彼女の活躍に、どんな顔をしたのかと考えると楽しくなってしまいます。
そして、本作はクリスティのデビュー作であると同時に、名探偵エルキュール・ポアロの初登場作品でもあります。
彼は「ミステリーの女王」クリスティが生み出した不朽の名探偵であり、たったキャラクター性や、その奇抜な外見と鋭い推理力に強烈な存在感があります。
本作ですでに、彼の代名詞ともいえる「灰色の脳細胞」が全開であり、持ち前の観察眼と洞察力を駆使し、緻密な推理で真相に迫る姿が、後の代表作にも引けを取らないくらいに描かれています。
物語の舞台は、第一次世界大戦中のイギリスの田舎町、エセックスにあるスタイルズ荘。
負傷して療養休暇中のヘイスティングズ大尉 は、旧友であるジョン・カヴェンディッシュ の招きでこの屋敷に滞在することになります。
スタイルズ荘は、裕福な未亡人であるエミリー・イングルソープ の邸宅です。
彼女は最近、年の離れた若い男性であるアルフレッド・イングルソープ と再婚しました。
屋敷には、エミリーの義理の息子であるジョンとその妻メアリー、もう一人の義理の息子ローレンス、そしてエミリーの秘書であるエヴリン・ハワード など、多くの人々が暮らしています。
しかし、ヘイスティングズは到着早々、屋敷に漂う異様な不和と緊張感を感じ取ります。
特に、新しい夫アルフレッドに対する他の住人たちの疑念と冷ややかな視線が印象的です。エヴリン・ハワードはアルフレッドへの強い嫌悪感を隠そうとしません。
主要登場人物が出揃ったところで、突然の悲劇が起こります。
ある夜、エミリーの部屋から恐ろしい叫び声が響き渡り、駆けつけた家族の前で彼女は苦しみながら息絶えます。
現場は不可解な状況でした。部屋の扉は内側から施錠されており、窓も閉まっていました。当初は心臓発作と思われましたが、現場の状況から毒物の存在が疑われ、エミリーの死は殺人事件として扱われることになります。死因はストリキニーネによる毒殺でした。
捜査が始まる中、ヘイスティングズは偶然にも、近隣に住むベルギー人の亡命者、エルキュール・ポアロ と再会。
ポアロは元ベルギー警察の著名な探偵でした。ヘイスティングズは旧友に助けを求め、ポアロは事件の捜査に乗り出します。
ポアロは、持ち前の鋭い観察眼と洞察力 を駆使して、住人たちの証言を注意深く聞き取り、関係者の複雑な人間関係や遺産を巡る思惑、そして次々と明らかになる秘密を分析していきます。事件は多くの謎に包まれ、関係者の誰もが怪しく見える中、ポアロは緻密な推理で真相に迫っていきます。
物語はヘイスティングズの視点から語られ、読者は彼と共にスタイルズ荘の住人たちの間に隠された真実を追体験することになります。
この作品の魅力は、緻密に張り巡らされた伏線と、読者をミスリードする巧妙なトリック にあります。
ポアロの「灰色の脳細胞」 がどのように機能し、一見不可能に見える状況から真実を導き出すのか。
本作で被害者であるエミリー・イングルソープ夫人の死因となったのはストリキニーネという毒物です 。
この毒物は、エミリー夫人の常備薬である睡眠薬に混入され、致死量となるように臭化物を加えて効果が増強されたとポアロは推理し、その方法が明らかになります。
本作で毒物のトリックが効果的に使われているのは、クリスティが第一次世界大戦中に薬剤師の助手として働いていた経験が大きく活かされています。
彼女は病院の薬局で調剤の仕事に携わったことで、様々な種類の薬物や毒物、その作用、致死量、摂取方法、そして時間が経つにつれて体にどのような影響を与えるかといった専門的な知識を身につけました。
このキャリアは、本作に限らず、後のクリスティ作品に大きな影響を与えています。
彼女の作品に登場する毒物は、その性質や効果が非常に詳細かつ正確に描写されており、ミステリーという非日常世界に決定的なリアリティを与えます。これは、彼女が実務を経験したからこその知識の賜物です。
クリスティは、この毒物の知識を駆使して、様々な種類の毒物を使い分けたり、毒を盛る方法やタイミングに工夫を凝らしたりと、多彩な毒殺トリックを生み出してきました。
これは、単に毒殺事件を描くだけでなく、その裏にある巧妙な手口を構築する上で不可欠な要素でした。
彼女の作品には科学を駆使したリアリティのあるトリックと、登場人物の心情をを巧妙に描写し、時には読者をミスリードする心理トリックが、絶妙のコンビネーションを構築した作品が持ち味ですが、その技巧はすでにこのデビュー作から完成されていたというのが率直な感想。
特筆したいことは、とにかく彼女の小説は、会話のテンポがすこぶるよろしい。
これがスイスイと読み進められる原動力になっているのは、間違いのないところでしょう。
後の代表作と遜色ない長編ミステリーを、すでに20代で書き上げていたアガサ・クリスティは、デビュー作ですでに完成していたというのはちょっと驚きです。
アガサ・クリスティは、コナン・ドイルの書いた作品を読み、幼少期を送ってきたとされています。
クリスティもまた、幼い頃よりシャーロック・ホームズを愛読してきたという逸話を聞くと、同じような少年時代を送っていたホームズ・オタクとしては、バリバリにシンパシーを感じてしまいます。
そんな彼女が、探偵と相棒という物語の構成をコナン・ドイルに手本を求めているのは御存じの通り。
名探偵エルキュール・ポアロと語り手である相棒のアーサー・ヘイスティングズも、もちろん本作から登場します。
読書少女だった彼女は、家にもう読む本がなくなってしまったことを母親に訴えたときに、彼女の母親は娘にこういったそうです。
「それなら、自分で書いてみたら。」
まさに母親のこの一言が、ミステリーの女王の誕生の瞬間だったかもしれません。
おっかさん。よく言った!
コメント