ホロコーストを描いた作品は多くありますが、こんな視点もあったのだと感心しました。
映画『関心領域(The Zone of Interest)』は、ジョナサン・グレイザー監督がマーティン・エイミスの同名小説を原作に手掛けた、残虐シーンや戦闘シーンが一切登場しない静粛なる戦争映画です。
本作は、アウシュヴィッツ強制収容所と壁一枚隔てた隣に住む所長ルドルフ・ヘスとその家族の「理想的な日常」を淡々と映し出すだけの映像のみで、観客が凍り付くような強烈なメッセージを投げかけます。
冒頭の音楽は、漆黒の画面に流れる、不協和音の塊が押し寄せてくるようなサウンドのみ。
そのあとは、ルドルフ一家の淡々とした日常が描かれていきます。
しかし、観客はその壁の向こうから聞こえてくる音の意味を理解してくると、次第に背筋が凍って来るという仕掛けになっており、このアイデアが実に秀逸。
本作の主役は、この音響効果そのものと言っても過言ではないでしょう。
本作は、第76回カンヌ国際映画祭でグランプリを、第96回アカデミー賞で国際長編映画賞と音響賞を受賞しています。
ちなみに、ルドルフ・ヘスというナチ党の副総統だった人物がいますが、本作に登場するヘスは、同姓同名の別人です。
物語の舞台は1943年、アウシュヴィッツ強制収容所のまさに隣に建てられたヘス一家の美しい邸宅です。
ルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)と妻ヘドウィグ(ザンドラ・ヒュラー)、そして5人の子どもたちは、手入れの行き届いた広大な庭でピクニックをしたり、温室で花を育てたり、夏にはプールや川で泳いだりするなど、絵に描いたような牧歌的な生活を送っています。
家の中は広々としており、収容所から没収された高級品で満たされ、ヘドウィグは「ここで生き、ここで死にたい」と語るほど、この「楽園」を満喫しています。
ユダヤ人から没収した毛皮のコートを身に着け、鏡の前でポーズをとるヘドウィク。
そして、そのポケットから出来た口紅を自分の唇に塗る彼女は、この持ち主が、誰であるかを知っています。
自分の中にある罪悪感を意識的に無視することでしか、この幸福は享受できないことを、彼女は本能的に知っているわけです。
映画は収容所の惨劇を直接的に映し出すことは一切しません。
その代わりに、壁の向こうから聞こえてくる絶え間ない銃声、叫び声、焼却炉の燃える音、列車の汽笛、そして煙突から常に立ち上る黒煙といった「見えない残酷さ」と「聞こえる残酷さ」を観客に突きつけます。
ヘス一家は、終始一貫、これらの恐ろしい現実をまるで存在しないかのように振る舞い、あるいは意図的に無関心を装います。
しかし、壁一枚向こうで繰り広げられている想像を絶する殺戮は、徐々に一家の日常に、暗い影を落としていくことに。
本作の最大の特徴は、加害者側の「普通の生活」を徹底した客観性で描き出すこと。
これにより、ホロコーストの非人間性と、日常の中に潜む暴力や無関心を浮き彫りにする点にあります。
まず、その撮影法で気がつくことは、徹底した固定カメラによる客観的な視点にこだわった点。
グレイザー監督は、邸宅内に設置したカメラには、スタッフを配置せず全て遠隔操作で行いました。
これにより、我々の目を、常時一家を観察している傍観者の目線にすることに成功しています。
クローズアップや、パンやティルトといったカメラの動きも一切なし。
美化も悪魔化もせず、登場人物たちをフラットに映し出すことで、観客は「この普通の家族の異常性」を自ら見出し、その意味を能動的に問い直すことを求められます。
ヘスが子どもたちと川で遊泳中に人骨を発見し、慌てて子どもたちを家に戻し、念入りに体を洗わせるシーンは、日常と凶悪な現実が避けがたく交錯する瞬間。
この行為は、単なる衛生上の理由だけでなく、自分の子どもたちが「自分が指揮する大量虐殺の痕跡」に触れてしまったことへの動揺、そして加害の現実が家庭の日常に侵入してきたことへの拒絶感と切り離したい願望を象徴しています。
しかし、どれほど切り離そうとしても、その「汚れ」は簡単には消せないことも示唆しています。
ヘドウィヒの母親がヘス邸を訪れます。
彼女は、あの塀の向こうに、自分がかつて家政婦として働いていたユダヤ人一家が送られていることを娘にさりげなく告げます。
しかし、これに対して、なんのリアクションもしないヘドウィヒ。
壁の向こうで何が行われているかは、彼女にとって「関心領域」外の出来事としてシャットアウトされているわけです。
しかし、母親には彼女たち一家の暗黙のルールが理解しきれていません。
母親が深夜、収容所の煙突から上がる煙を不安そうに見つめ、やがて置き手紙を残して去っていく描写も実に印象的。
彼女の突然の行動は、この異常な環境に対する彼女自身の生理的な拒絶反応であり、「良心の呵責」というよりは、その場に身を置き続けることへの精神的なストレスが限界であることを示していたように思えます。
一方、ヘドウィヒが彼女の残したメモを燃やす行為にもドキリとさせられます。
それは不都合な現実を意識的に排除し、自らの「幸福な日常」を守ろうとする無関心の象徴であり、真実から目を背ける構造を意味しています。
具体的な恐怖シーンは何一つ出てこないのに、自分がいつしか、人間の一番醜い部分を炙り出しているホラー映画を見せられている気にさせられます。
本作を見ながら、脳裏によぎったていたのは、ハンナ・アレントが著した『イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』でした。
ハンナ・アレントがこの著書で提示したのは「悪の凡庸性」という概念。
彼女は、この概念を同著にて、より深い次元で考察しています。
アレントはアイヒマン裁判を通じて、サディスティックな悪意ではなく、「思考停止」と「職務遂行」に没頭する「凡庸な」人間が、いかに巨大な悪を為し得るかを示しました。
『関心領域』のヘス一家は、この「悪の凡庸性」を、アイヒマンとは別の側面から描いているわけです。
彼らの「幸福」な日常は、隣で起こっている地獄への「徹底的な無関心」という絶対的な前提の上に成り立ってるのは前記した通り。
この無関心は、単なる「知らない」や「気づかない」ではなく、能動的に「知ろうとしない」「見ない」「考えない」という選択の連続であることが肝です。
似ていても、両者には決定的な違いがあります。
ヘドウィヒが収容所から没収された物品を「借用」し、囚人たちを家事や庭仕事に使役しながら、自身の「理想の庭」の美しさにこだわる姿は、まさにアレントの言う「凡庸さ」を体現しています。
彼女にとってそれは「悪」ではなく、「効率的な家事」や「美しい庭づくり」という日常の延長線上にある行為に過ぎません。
映画は、この「思考しないこと」だけでなく、「見ることを拒否する」こと、そして「無関心であること」が、いかに能動的な加害となり得るかを静かに、しかし圧倒的な迫力で描き出しています。
彼らの「小さな幸福」は、隣人の犠牲の上に成り立つ、極めて脆弱で非道徳的な幻想なのだということ。
この映画がどう着地するのかを謀りかねながら見ていたら、グレイザー監督はとんでもないラストを用意していました。
本作のラストでは、時代が突然ジャンプして、現代のアウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館に場面が転換し、スタッフが展示物(犠牲者の靴や衣類など)を淡々と清掃する光景になります。
これを説明するようなセリフは一切ありません。
解釈の一切は、鑑賞者に委ねるというわけです。
そこでやや深掘りを。
この「日常的な清掃」は、かつてヘス一家が送っていた「普通の暮らし」とも重なります。
「過去の悲劇や暴力は、現代においても“日常の一部”として風化し、無関心の中に埋もれてしまう危険性がある」という強烈な警告を観客に突きつけているようにも見えます。
掃除機の音は、かつて聞こえていた収容所の銃声や叫び声と対比され、現代の「日常の音」に過去の記憶がかき消されていく恐ろしさを象徴しているともとらえられます。
このシーンは、「ホロコーストの記憶は終わったことではなく、今も私たちの日常のすぐ隣にある」という現実を見るもに突きつけることになります。
そして、映画のラストでヘスが突然嘔吐するシーンは、何を意味しているのか。
これは、そうとは意識しなくとも、彼の内面に潜む「罪悪感」や「無意識の拒絶反応」を象徴しているように見えます。
これは、「どれほど無関心を装っても、完全な無感覚でいることは不可能であり、人間の本能が最後に拒絶反応を示す」という、本作の核心的なメッセージを体現しているシーンかもしれません。
ホロコーストを批判する人は多いでしょう。しかし気がつけば、いつかそんな我々も、無関心な傍観者になっていやしないか?
自らの「関心領域」の外にある現実に対して、能動的に無関心でいることが、巡り巡ってどういう事態を招くことになるのか。
無関係を装いながら、知らず知らずのうちに悪の共犯者となっている現実に対して、それでも自分には関係ないことだと見て見ぬふりをするのか。
本編とはなんの脈絡もなく、一人の少女がアウシュビッツの囚人たちの作業現場に侵入し、りんご(らしきもの)を、囚人たちにわかるように置いていくシーンが、サーモグラフィ風の印象的なモノクロ映像で、象徴的に描かれていました。
熱感知カメラによる映像は、彼女の「人間性」や「温もり」を象徴しているようにも見え、本作において、ホロコーストに対して人道的な関心を持った唯一の存在として強調されています。
その彼女が、囚人が残したと思われる楽譜の旋律を、ピアノの前に座って指一本で奏でます。
これは本編の中で、唯一音楽が流れるシーン。
サーモグラフィ風の映像から、彼女の表情は読み取れません。
彼女の行動を支えているのは、なんの理屈もない純粋な善意のみ。
明らかに、少女のシーンは、ヘス一家たちとはネガポジの反対称になっているように見えます。
ルドルフ・ヘス一家の無関心で塗り固められた偽りの幸福の下では、息も絶え絶えな良心が悲鳴を上げているのかもしれません。
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