この年、僕は小学校三年生でした。
この頃の多くの少年がそうであったように、僕も「巨人・大鵬・卵焼き」ド真ん中世代。
その日も、僕はいつものようにテレビにかじりついて、プロ野球中継を見ていました。
生中継が伝えていたのは、伝統の巨人-阪神22回戦。
ペナントレースの天王山ともいえる試合で、ブラウン管からもその熱気は伝わってきました。
場所は、甲子園球場。ダブルヘッターの2試合目です。
記録を見てみると、1968年のセ・リーグは、巨人と阪神が激しい優勝争いを繰り広げていました。
8月初旬には巨人が最大9ゲーム差をつけて首位を独走していましたが、阪神は「村山実・江夏豊・バッキー」の三本柱の活躍で8月に19勝2敗という驚異の快進撃を見せ、9月中旬には、首位巨人までゲーム差2まで肉薄。
9月17日から甲子園球場で「阪神VS巨人」の天王山4連戦が始まり、両チームともこの直接対決には、並々ならぬ決意をもって臨んでいました。
第1試合は阪神・村山実、巨人・堀内恒夫の投げ合い。0-0で迎えた9回裏、阪神の辻佳紀が堀内からサヨナラ2ランを放ち、阪神が2-0で勝利。
これで阪神は2試合連続サヨナラ勝ち、巨人とゲーム差0(勝率差で僅かに巨人が首位)となります。
阪神は、地元甲子園球場でのホーム試合とあって、イケイケムードが爆発。
そんな異様な盛り上がりの中で、事件は起こります。
第2試合は阪神・バッキー、巨人・金田正一の先発で始まりました。
しかしこの試合、阪神は序盤から守備のミスも絡んで失点を重ね、4回表には既に0-5と劣勢。
事件はこの4回表2死2塁、打席に王貞治を迎えた場面で起こりました。
バッキーは王に対し、1球目は顔面すれすれ、2球目も膝元への危険球(ビーンボール)を投じました。
王は怒ってバットを持ったままマウンドに歩み寄り、「危ないじゃないか!」と抗議。
バッキーも言い返し、甲子園球場に一触即発の空気が広がります。
すると、この時、巨人ベンチから荒川博打撃コーチが飛び出し、バッキーに向かって突進。
すかさず阪神ベンチも反応します。
たちまち、マウンド付近では、両軍入り乱れての大乱闘に発展し、甲子園球場は一時騒然となります。
当時の写真を見ると、荒川コーチがバッキーの足を蹴り上げ、バッキーも荒川コーチの顔面を殴打。
両軍選手も加わって、ダイヤモンド内は収拾がつかない騒ぎになりました。
この乱闘により、最終的に、バッキーと荒川コーチが退場処分。
阪神ベンチは「乱闘の原因を作った王も退場させろ!」と猛抗議。観客席からは空き缶やビール瓶がグラウンドに投げ込まれるなど、甲子園球場は異様な雰囲気に包まれました。
しかし、王はそのままバッターボックスへ。
バッキーに代わって登板したのは阪神・権藤正利でした。
しかし、権藤の王に対する5球目は、右側頭部を直撃するデッド・ボールに。
ブラウン管を見つめながら、子供心に嫌な気分になったのを覚えています。
王はそのまま担架で運ばれて退場。
これをきっかけに再びベンチが飛び出し、グラウンド内は再び険悪なムードに。
ペナントレースの行方を占う意味でも、ともに譲れない伝統の巨人-阪神22回戦は、異様な空気に支配されます。
そして、この場面でバッターボックスに立ったのが4番長嶋茂雄。
長嶋は、乱闘には加わっていませんでしたが、その闘志は胸の中で燃えていました。
そして、権藤の投げた球を思い切り振りぬいた長嶋の打球はそのままスタンドへ。
「王の仇討ち」といわんばかりの長嶋の一打は、3ランホームランとなり、この試合を決定づけます。
3塁ベースを回った長嶋は、ここで、両手を天に突き上げてガッツポーズ。
この場面は、今でも鮮烈にこの両目に焼き付いています。
こんなドラマチックなシーンは、漫画にもアニメにもありませんでした。
長嶋は、この試合で、さらに8回にもダメ押しの2ランを放って、阪神に引導を渡します。
試合は結局巨人が10-2で阪神を圧倒し、首位の座を死守。
バッキーは乱闘で荒川コーチを殴った際に右手親指を骨折し、残りシーズンを棒に振ることになります。
通算100勝の助っ人はこれが阪神での最後の登板となりました。
阪神はエース級の先発を失い、以降の戦いでは完全に失速。
最終的に昭和43年のペナントレースは、巨人が4年連続のリーグ優勝を決めます。
この日の試合の模様は、当時の愛読漫画だった「巨人の星」にも、取り上げられていたので、この日付はしっかりと野球少年の頭にもインプット。
長嶋茂雄ほど、野球ファンの記憶に残る野球選手はいないかもしれません。
しかし、ミスター・ジャイアンツの雄姿は、それから半世紀以上が経った今でも、僕にとってはこの試合での長嶋茂雄の姿に他なりません。
2025年6月3日。長嶋茂雄逝去。享年89歳。
心よりご冥福をお祈りいたします。合掌。
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