「人間老齢を迎えてくると、学生の頃にサボった勉強が追いかけてくるようになる。」
そこへいくと、この福岡教授の文章は、とても理想的。とても理科系の先生の文章とは思えないほどリリックであり、文学的であり、しかもわかりやすい。
投稿情報: 午後 08時06分 カテゴリー: 書籍 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
ブクレコに読書感想文を書いていたら、調子に乗って文字数オーバーになってしまいましたので、全文こちらに掲載いたします。
「なんだか教室が変なんだよ」
小学生の子供を持つ友人が、父親参観で学校にいって、我が子のクラスの授業風景を見てきて、ため息をつきながらの感想がそれでした。
僕は子供がいないので、自分の小学生だった頃の教室と比べるしかないのですが、友人から聞いたその教室の風景はちょっと衝撃的でした。
担任の先生は、淡々と授業してるのですが、先生に完全に背中を向けて友達と話している子供がいるかと思えば、ある子供はフラフラと教室の中を歩き回っている。
もちろん教室の前の方では先生の授業聞いてる生徒もいるのですが、参加していない生徒は完全に自由行動。先生も特に注意はしない。
それが、父親たちを呼んで公開している授業参観の授業なわけですから友人も目が点になったらしい。
聞いていた僕もちょっと信じがたい気持ちでした。
昨今の、ゆとり教育の実態これだとは言わないでしょうが、これはほとんど学級崩壊。教育放棄ではなかろうかと思わざるを得ない。
とにかく、教育の現場がちょっと大変なことになっているらしいという状況は、僕のような門外漢でもひしひしと伝わってきました。
ならば、その原因は何か?
ある人は、教師の品質が落ちているとからだといい、学校が悪いといい、ある人はモンスターと化した親やその家庭が悪いといい、ある人は社会環境のせいだと言う。
しかし、著者はその事は十分に認めつつも、当事者である子供たちも、それなりに、おかしくなっていると訴えます。
教師であったものの立場から言えば、「子供がおかしい」という発言をするのは、責任放棄を認めているようで、かなり勇気が要ることだと思います。しかし、著者は、あえてそう訴えます。
子供は純真無垢な真っ白なキャンパス。子供にはいついかなる時にも何の罪もない。諸悪の根源は、いつでも子供たちを取り巻く環境と大人たち。
「子供たちを守ろう」という御旗を掲げて、学校や教師たちに問題提起をする、したり顔の教育評論家たちに、著者は名指しで必死の抵抗を試みます。
そこには、教育現場の真ん中で、変わっていく子供たちを肌で感じながら、ある時は無力感にさいなまれ、ある時は手ごたえを感じながらも、社会環境と教育行政に翻弄されてきた、けしてきれいごとではない教師の長年にわたる経験値の重みがあります。
産業社会の中で「労働」を経験するよりも先に、市民社会の中で、「消費」を経験することで、社会的デビューを果たしてしまう現代の子供たち。
教育にも労働にも、子供たちは、金科玉条のように、経済社会での常識である「等価交換」の原則を持ち込みます。
学校や職場に行くと言う苦痛と引き換えに、自分たちに何が得られるのか。
この等価交換が成り立たなければ、子供や若者たちは、何の躊躇もなく学校も職場も放棄するとするなら、大人たちはどう対応するべきか。
それぞれの立場しか主張しない大人たちの脇で、子供たちが舌を出している気がしてなりません。
投稿情報: 午前 11時25分 カテゴリー: 書籍 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
ブクレコに読書感想文を書いていたら、調子に乗って文字数オーバーになってしまいましたので、全文こちらに掲載いたします。
「なんだか教室が変なんだよ」
小学生の子供を持つ友人が、父親参観で学校にいって、我が子のクラスの授業風景を見てきて、ため息をつきながらの感想がそれでした。
僕は子供がいないので、自分の小学生だった頃の教室と比べるしかないのですが、友人から聞いたその教室の風景はちょっと衝撃的でした。
担任の先生は、淡々と授業してるのですが、先生に完全に背中を向けて友達と話している子供がいるかと思えば、ある子供はフラフラと教室の中を歩き回っている。
もちろん教室の前の方では先生の授業聞いてる生徒もいるのですが、参加していない生徒は完全に自由行動。先生も特に注意はしない。
それが、父親たちを呼んで公開している授業参観の授業なわけですから友人も目が点になったらしい。
聞いていた僕もちょっと信じがたい気持ちでした。
昨今の、ゆとり教育の実態これだとは言わないでしょうが、これはほとんど学級崩壊。教育放棄ではなかろうかと思わざるを得ない。
とにかく、教育の現場がちょっと大変なことになっているらしいという状況は、僕のような門外漢でもひしひしと伝わってきました。
ならば、その原因は何か?
ある人は、教師の品質が落ちているとからだといい、学校が悪いといい、ある人はモンスターと化した親やその家庭が悪いといい、ある人は社会環境のせいだと言う。
しかし、著者はその事は十分に認めつつも、当事者である子供たちも、それなりに、おかしくなっていると訴えます。
教師であったものの立場から言えば、「子供がおかしい」という発言をするのは、責任放棄を認めているようで、かなり勇気が要ることだと思います。しかし、著者は、あえてそう訴えます。
子供は純真無垢な真っ白なキャンパス。子供にはいついかなる時にも何の罪もない。諸悪の根源は、いつでも子供たちを取り巻く環境と大人たち。
「子供たちを守ろう」という御旗を掲げて、学校や教師たちに問題提起をする、したり顔の教育評論家たちに、著者は名指しで必死の抵抗を試みます。
そこには、教育現場の真ん中で、変わっていく子供たちを肌で感じながら、ある時は無力感にさいなまれ、ある時は手ごたえを感じながらも、社会環境と教育行政に翻弄されてきた、けしてきれいごとではない教師の長年にわたる経験値の重みがあります。
産業社会の中で「労働」を経験するよりも先に、市民社会の中で、「消費」を経験することで、社会的デビューを果たしてしまう現代の子供たち。
教育にも労働にも、子供たちは、金科玉条のように、経済社会での常識である「等価交換」の原則を持ち込みます。
学校や職場に行くと言う苦痛と引き換えに、自分たちに何が得られるのか。
この等価交換が成り立たなければ、子供や若者たちは、何の躊躇もなく学校も職場も放棄するとするなら、大人たちはどう対応するべきか。
それぞれの立場しか主張しない大人たちの脇で、子供たちが舌を出している気がしてなりません。
投稿情報: 午前 11時59分 カテゴリー: 書籍 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
こういう言い方は、ちょっと失礼なのかもしれないが、まことにブログ感覚で読ませていただいた。
高峰さんが、スマホやパソコンを駆使して、ブログを書き込む姿などちょっと想像しにくいが、もしもされていたとしたら、さぞやフォロワーが多かったことだろう。
高峰さんの筆を通すと、日常のデキゴトが、キラキラと輝き出す。
その温かい眼差しで相手を包み込み、そして時にはバッサリ。それがとても爽やかで嫌味がない。
天は、時には人を選んで、二物をあたえるようである。
この天下の大女優のまな板の上に乗せられて、料理されるおいしい人たち。
これだけ確かな腕のコックの前に、これだけの素材が揃えば、おいしい料理ができないわけがない。
ごちそうさまでした。
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おっと、一本忘れておりました。
NHK教育テレビジョン「100分 de 名著」。
これこれ。
世界に知れ渡る名著を、100分(25分×4回)で、読み解こうという番組。
ホストは、なかなかインテリなバラエティタレント伊集院光と、現在は武内陶子アナ。
白状してしておきますが、この番組で取り上げられた世界の名著で、
僕が読んだことのある本は、ただの一冊もありません。
おそらくこれからも、読まないんだろうなあ。
要するに、読んでおいたほうが良いのだけれど、読むことはないだろうと思われる本を、
読んだ気にさせてくれるので、この番組は僕にとっては重宝しているというわけです。
そして、番組で知ったウンチクを、その著書を、さも読んだような顔をして、いけしゃあしゃあと、
あちこちで語るのですから、まあロクなもんじゃありません。
もともと僕は本屋の息子でして、本のまえがきやあとがきを読んだだけで、
夏休みの読書感想の宿題を、書いて提出したことは数知れず。
もともとその素養はあります。
だってしょうがない。
僕の好きだった、シャーロック・ホームズやアルセーヌ・ルパンのシリーズは、
読書感想の課題には、してくれなかったんですから。
曰く、
安倍政権は完全にチームで動いており、小泉政権時よりもいっそう進 化した体制をとっている。言ってみれば、「騙しのテクニック」すなわち「詐術」が装置化され、政権内の仕組みとして定着している。
曰く、
安倍総理は、「外との闘い」では勇ましい言葉を並べたてるが、「内なる闘い」の相手、つまり既得権には立ち向かおうとしない。
どうも、なにかおかしいと直感的には思うのだけれど、うまく説明できない。
安部政権発足からの、政治劇場を見ていると、そう思わされることがままあった。
しかし、その「なにか」がわからないので、まあしょうがないのかなと思ってしまう。
原発再稼働しかり、消費税しかり、汚染水しかり。
しかし、その「なにか」を、ここまで明快に説明してもらうと、普通に「やっぱりそうなんだ」と、正気に返る。
もちろん、こちらには、古賀さんのような明晰な頭脳はないが、少なくとも、「あなたの直感は間違っていませんよ」と、肩を押される快感で、一気に読めてしまった。
今の政治を取り巻く状況が、巨大なミステリーだとすると、その謎解きの解決編を一冊の本にしてくれたような著書である。
政治も、マスコミの報道も、僕らよりも優秀な人たちが、僕らよりもたっぷり時間をかけて練ったことを発信して来てくれるのだから、間違いはないだろうと、安易に思ってしまうことが、実はおもいきり安易だということに気付かされる。
私利私欲のために、影でコソコソと何をやっているわからない連中に、ちゃんと仕事をさせようと思うなら、ちゃんと見ていないといけないということ。つまり、こちらはちゃんとお見通しだぞという世論のプレッシャーが、彼らへの抑止力になるんだということ。
そう考えると、彼らにそれを許してしまっている最大の原因は、実は我々の「無関心」かもしれない。反省。反省。
投稿情報: 午後 10時51分 カテゴリー: 書籍 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
1905年の出版といいますから、世は明治。
「武士」という地位も、すでになくなっていた時代に書かれた本です。
日清戦争、日露戦争に勝利して、アジアの中でも、日本が頭一つ抜け出ようとしたいた時代。
おそらく世の中のムードは、明治政府の掲げた富国強兵政策にイケイケ。
ある意味では、アベノミックスで、盛り上がっている今と、時代の空気は似ていたのではないでしょうか。
おそらく、そのうかれた世の中を冷静に見つめていたのが新渡戸稲造。
彼は、あえて過去の遺物となろうとしていた「武士道」の精神を示すことで、軍国路線まっしぐらの、当時の我が国に警鐘を鳴らそうとしたんだろうと想像いたします。
まず、戦争に対して新渡戸はこういいます。
「武士道は刀の無分別なる使用を是認するか。答えて曰く、断じてしからず!武士道は刀の正当なる使用を大いに重んじたるごとく、その濫用を非としかつ憎んだ。」
また、こうもいいます。
「血を流さずして勝つことをもって最上の勝利とす。負くるが勝ち。」
質の低下が叫ばれる教育問題。
武士道では、こう捉えます。
「知識でなく品性が、頭脳でなく霊魂が琢磨啓発の素材として選ばれる時、教師の職業は神聖なる性質を帯びる。」
さらにー
「武士の教育において守るべき第一の点は品性を建つるにあり。思慮、知識、弁論等知的才能は重んぜられなかった。美的なたしなみが武士の教育上重要なる役割を占めた。」
「武士は食わねど高楊枝」というと、体裁を重んじて、やせ我慢という負のイメージが先行してしまいますが、新渡戸の武士道は、けっしてそうは言いいません。そのプライドと徳があったからこそ、たとえ貧乏長屋の片隅で、傘張りをしていても、武士は「お侍さん」として、町民からその「品性」を認められ尊敬されていたというわけです。
武士道とは、つまり人を切り捨てられる武器である刀を持つことを許された者たちが、当然持つべき「品性」を説いた道。
この「品性」というものをつきつめていくと、お金を儲けるという経済活動そのものが、武士道からは外れた、憂慮するべきこと。エコノミックジャパンそのものが、「武士道」からは、大きく外れた道であるのかもしれません。
しかし、それでも品性は品性。経済大国日本ならではの「品格」ともいうべものははあっていい。
やはり、日本人であるなら、根っこに「武士道」がなくてはいかんかだろうというお話です。
目先の「金儲け」に背を向けてまでも、人としての「品性」。国家としての「品格」を、堂々とアピールできるかどうか。
新渡戸の語る「武士道」がそっくりそのまま、今の世の中に受け入れられることは、もはやないのかもしれませんが、それでも、今の我々が失くしているものを補うエッセンスは、この100年以上前の著書にはふんだんに盛り込まれています。
僕は、商人だった父親から、特に「道徳」めいたことを教えられた記憶はありませんが、かつて軍人だった祖父からは、こう言われたことをかすかに覚えています。
「いいか。卑怯なことはしちゃだめだ。じいちゃんは見てなくても、お天道様は見てるぞ。」
さて、今の世の中、お天道さまが見ているというだけで、自分の行いを戒められるサムライたちが、どれほどいましょうか。
投稿情報: 午後 03時34分 カテゴリー: 書籍 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
もちろん、我が家でも、「燃えるゴミ」と「燃えないゴミ」の分別くらいはいたしますが、燃えないゴミの中で、さらに、「缶ビン」と「ペットボトル」の分別をしろということになると、ちと面倒くさいということになる。
自治会でまわってくる回覧には、ちゃんと「分別規定」も書いてありますので、自治会の役員などもやってしまった以上、無視するわけにもいかず、捨てるときには、しぶしぶ、燃えないゴミの袋をさらに分別しているわけです。
そんな時にふと読んだ本がこれ。
2007年のベストセラーを、Bookoff で、105円で買いました。
著者は、武田邦彦という東大出の先生。
けして、難しい内容の本ではなく、非常にわかりやすい文章でしたので、するすると読めました。
そしてまた、この先生がおっしゃることが、いちいち、目からうろこ。
こっちが、疑うことなく、信用していた、「環境問題のウソ」を、バザバサと暴いてくれたもので、おもわず、唸りながら読んでおりました。
だって、あの面倒くさい、ペットボトルのリサイクルのための分別が、反対に「環境にはかえってダメージを与えている」と、こうくるわけです。
こちらとしては、「武田さん。よくぞいってくれた!」と膝ポンものです。
しかし、ふむふむと読みながら、ふと、この先生をGoogle してみますと、なにやら、不穏な記事がノッているではありませんか。
曰く、
「センセーショナルなだけの、誤った主張」
「データは捏造」
そのアンチ武田の急先鋒は、山本弘という方。
SF作家で、ゲーム作家。こういう、トンデモナイ内容の本に物申すという学会も設立して活動している方です。
まあ、こういうことになると、武田氏の著作に感銘しかけたものとしては、こちらの主張も読んでみないと片手落ちだわいということになります。
それで、同じく Amazon で購入した本がこちら。
さて、こちらの本を検証するにあたっては、以下の点にポイントを絞りました。
① 一事が万事的論調になっていないか。
つまり、ひとつ間違った点だけを、大きく取り上げて、だから全部間違いという主張になっていないか。
② オリジナルの人気にあやかって、これで売れればめっけものという色気が隠れてないか。
③ 武田氏への個人的感情が入り込む経緯はないか。
④ 重箱の隅を突っつくような内容ではないか。
で、見解を述べる前に、予め申し上げておきますと、この山本氏が時間をかけて、検証したであろうデータの信憑性などを確かめる気などは、私個人には、サラサラありませんということ。
そのジャッジは、あくまで、二つの本をサーッと読んだ、僕の読後の心証で決めるので、世間の判断とは、大いにズレルであろうということの2点。
ぶっちゃけた話が、最終的には、僕にとって、どちらが、読み物として面白かったかということになりますので、ご了承下さいませ。
で、前置きが長くなりましたが、結論から言ってしまいますと、やはり、僕としては、オリジナルの「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」に、とりあえずは、軍配をあげておくことにします。
どちらの主張が正しいかということは、結局のところ、僕にはわかりません。
要するに、僕レベルの頭には、武田氏の主張のほうが、山本氏の主張よりは、説得力があったということですな。
山本氏にはちょいと可哀想だったかもしれませんが、これは、僕が数字を読むセンスが大いに欠如しているコテコテの文系人間だという点が、大きく関係していると思われます。
だって、どんなに丁寧に、数字のおかしい点を主張されても、理解できないんだからしょうがない。
武田氏が、「これこれは、実に7倍です」という主張を、「いやそれはおかしい。ちゃんと計算すると4倍にしかならない」と説明されても、だから何なのという話なんですね。
7倍が4倍でも、論旨がおかしいという事にはならないだろうというのが僕の感想。
これが、4倍ではなく、実は4分の1だったいうなら話は別ですよ。
それだと、論旨そのものが間違いという話になりますから、それはちょっと問題ですが、どうも、そこまでの数字の故意のいじくりがあるようには思えません。
結論としては、山本氏が問題にする数字の怪しさはあるけれど、、それは、けしてデタラメではないという範疇のものというのが僕の心証。
まあ、おそらく、山本氏の指摘通りに、武田氏には、データへの無理解や誤解はあったことは否定しません。
あれだけ、丁寧にウラをとって、解説を加えた山本氏の努力は評価いたしますし、その内容に、個人的感情の手心が加わっているとも思いません。
おそらく、そのあたりには、山本氏も細心の注意を払われたことは想像に固くありませんので、疑いません。
まあ、しかし、結果として、山本氏の著作は、僕にとっては、それ以上のものではないということですね。
しかし、これだけ突っ込まれてしまうんですから、いかに、本が売れたからといって、学者としての武田氏の脇が甘いことは事実です。
さてさて、おかげさまで、環境問題については、読む方としては、俄然興味に火がついてしまいましたので、この後、後続の「環境問題はなぜウソがまかり通るのか2」「環境問題はなぜウソがまかり通るのか3」も読んでみることにしますが、もちろん、山本氏の主張も充分に踏まえるつもりです。
これに関連して、養老孟司氏の本も読んでみました。
まあ、この爺さんの、肩の力を抜いた、ボヤキ世の中批判は、僕はけっこう好きなんですが、この対談本で取り上げられている内容の骨子は、こと環境については、武田氏の言っている内容と、さほど違っているとは感じませんでした。
調べても、この両書が、特に書評で問題視されているということはありません。
両書には、同じ主張が、随所に見られました。
要するに、武田氏は、あの本を、しっかりとしたデータに基づいた、学術書という立場で出してしまったのが間違いでした。
あの本は、養老ジイサンのように、単に、学者のひとりごとエッセイ的なスタンスで出していれば、これほどまでに目の敵にされてしまうことはなかったんだろうと思いますね。
武田氏としては、あの本が、まさかあそこまで売れるとは、想定していなかったんだろうなあ。
学者が世に出す本としては、明らかに手を抜いてしまったツケは、キチンと払わされてしまったというところでしょうか。
てなわけで、我が家の問題に戻ります。
やはり、いまのところ、ペットボトルの分別はきちんとやっておくことにいたしますかね。