「初恋の来た道」を観ました。
「中国的純愛郷愁家族物語」(勝手に漢字を並べただけ)とでもいいましょうか。
89分でサラリと終わってしまう割には、胸に残るいい映画でしたね。
監督は、チャン・イーモウ。主演のチャン・ツィイーは、これがデビュー作。
なにかとせちがらい世の中ですが、この映画のような「純愛」は、もはやファンタジーの領域なのかもしれません。
さてこの映画、なんといっても、主演のチャン・ツィーですね。
彼女の魅力なくしては、この映画は成立しないでしょう。
およそ、彼女のプロモーションビデオと勘違いするほど、この映画は、可愛く、健気で、可憐なチャン・ツィーであふれています。
可愛く、健気で、可憐と申しましたが、ここに「美しい」は、いれません。(彼女のファンにはおこられるかな)
思うに、この映画の主演は、「美人女優」では、務まらなかったと思うわけです。
どんなに演技力があろうと、この映画の主演は、沢尻エリカや上戸彩ではうまくない。
これは、この映画が、この主人公のもつ「健気さ」を伝えなければ成立しないからですね。
要するに、リアリティの問題です。
自分の想いを手料理に託して、彼がそれを食べるとは限らなくても、せっせと何キロもの道を歩いて届ける。
こういう報われない「健気」さを表現するのに、「美人」では、まずうそっぽくなる。
主演は、「美男美女」が原則。
そりゃあ、そうです。
お金を払ってみるほうとしては、やはり「美しく」「魅力的な」女性でなければ、感情移入はできません。
しかし、世の中みんな、「美男美女」であるわけがない。
これは、映画というメディア自体が宿命的に内包する「うそ」です。
しかしながら、こと「健気さ」に関してのみいえば、観ている方は、「美人」では、逆に感情移入できなくなる。
「魅力的」でなければ、映画の主演は勤まらないけれど、「美人」では、主人公のリアリティが伝わらない。
だから、この映画のヒロイン役は、難しかったわけです。
しかし、その点で、チャン・ツィーのキャスティングは絶妙でした。
そして、彼女が、まだこの時点では、「映画俳優」という認知がされていない「新人」であったこともキーポイント。
すべては、この映画のヒロインの「健気さ」を伝えるための監督の「計算」です。
チャン・イーモウ監督の演出も、そこに的がしぼられています。
この映画の中で、ヒロインは走りに走りまくります。
手を下に下げたまま、肩を揺らして必死に走る彼女。
ズボンを何枚も重ねてはかせたのは、監督の演出だそうです。
とにかく、この走りから彼女の「ひたむきさ」を引き出すまで、すべての走りを、15回以上やり直しているとか。
撮影で、1日3km以上走った日もあったそうです。
吹雪の中、彼氏をずっと待つシーンがありました。
彼の好きだった「赤い色の洋服」を着て、彼が戻ってくるはずの遠い道の向こうをみつめる彼女。
チャンツイーのまつげには、凍った雪がはりついています。
あれは、到底メイキャップで表現出来るものではありません。
あれも監督の要求。
朝から吹雪の中、7時間以上立ち続け、息を吹きかけたりして、まつげに霜ができてから撮影を開始したそうです。
これは、やらせた監督も、それに応えたチャン・ツィーもあっぱれ。
監督がこういっています。
これは「中国の伝統である詩的な物語。愛について、家族について、そして家族の間の愛についての物語」。
監督は、中国の山村の移ろいゆく四季を、現在をモノクロ、過去をカラーで撮影し、クローズ・アップやスローモーション、オーバーラップといった技巧と音楽を駆使しながら叙情性を盛り上げます。
中国の悠久の大地は、この映画のもう一人の主役といってもいいでしょう。
真っ白な雪原、黄金色の麦畑、青々とした森と白樺の林、丘陵に続く一本道……。
そして、そこにチャン・ツィーのみずみずしい表情と、けなげで一途な思いが見事にオーバーラップ。
この映画のような、「純愛」を、映画として表現しようとするなら、やはり舞台は、40年前の中国の寒村くらいにしておかなければ成立しなかったのかもしれません。
彼女の行動のひとつひとつを、映画から切り取って、今の常識に照らし合わせれば、「ストーカー」「キモイ」「アリエナイ」で、片付けられてしまいそうです。
ヒロインが、画面の中でうれしそうに笑うとき、 自分の口元も、おもわずそれにシンクロしておりました。
よかった。まだ自分もこういう映画を観て、感動できる感性を持ち合わせていた。
観終わって、これを確認できたとき、正直ホッとしましたね。
「中国的純愛郷愁家族物語」(勝手に漢字を並べただけ)とでもいいましょうか。
89分でサラリと終わってしまう割には、胸に残るいい映画でしたね。
監督は、チャン・イーモウ。主演のチャン・ツィイーは、これがデビュー作。
なにかとせちがらい世の中ですが、この映画のような「純愛」は、もはやファンタジーの領域なのかもしれません。
さてこの映画、なんといっても、主演のチャン・ツィーですね。
彼女の魅力なくしては、この映画は成立しないでしょう。
およそ、彼女のプロモーションビデオと勘違いするほど、この映画は、可愛く、健気で、可憐なチャン・ツィーであふれています。
可愛く、健気で、可憐と申しましたが、ここに「美しい」は、いれません。(彼女のファンにはおこられるかな)
思うに、この映画の主演は、「美人女優」では、務まらなかったと思うわけです。
どんなに演技力があろうと、この映画の主演は、沢尻エリカや上戸彩ではうまくない。
これは、この映画が、この主人公のもつ「健気さ」を伝えなければ成立しないからですね。
要するに、リアリティの問題です。
自分の想いを手料理に託して、彼がそれを食べるとは限らなくても、せっせと何キロもの道を歩いて届ける。
こういう報われない「健気」さを表現するのに、「美人」では、まずうそっぽくなる。
主演は、「美男美女」が原則。
そりゃあ、そうです。
お金を払ってみるほうとしては、やはり「美しく」「魅力的な」女性でなければ、感情移入はできません。
しかし、世の中みんな、「美男美女」であるわけがない。
これは、映画というメディア自体が宿命的に内包する「うそ」です。
しかしながら、こと「健気さ」に関してのみいえば、観ている方は、「美人」では、逆に感情移入できなくなる。
「魅力的」でなければ、映画の主演は勤まらないけれど、「美人」では、主人公のリアリティが伝わらない。
だから、この映画のヒロイン役は、難しかったわけです。
しかし、その点で、チャン・ツィーのキャスティングは絶妙でした。
そして、彼女が、まだこの時点では、「映画俳優」という認知がされていない「新人」であったこともキーポイント。
すべては、この映画のヒロインの「健気さ」を伝えるための監督の「計算」です。
チャン・イーモウ監督の演出も、そこに的がしぼられています。
この映画の中で、ヒロインは走りに走りまくります。
手を下に下げたまま、肩を揺らして必死に走る彼女。
ズボンを何枚も重ねてはかせたのは、監督の演出だそうです。
とにかく、この走りから彼女の「ひたむきさ」を引き出すまで、すべての走りを、15回以上やり直しているとか。
撮影で、1日3km以上走った日もあったそうです。
吹雪の中、彼氏をずっと待つシーンがありました。
彼の好きだった「赤い色の洋服」を着て、彼が戻ってくるはずの遠い道の向こうをみつめる彼女。
チャンツイーのまつげには、凍った雪がはりついています。
あれは、到底メイキャップで表現出来るものではありません。
あれも監督の要求。
朝から吹雪の中、7時間以上立ち続け、息を吹きかけたりして、まつげに霜ができてから撮影を開始したそうです。
これは、やらせた監督も、それに応えたチャン・ツィーもあっぱれ。
監督がこういっています。
これは「中国の伝統である詩的な物語。愛について、家族について、そして家族の間の愛についての物語」。
監督は、中国の山村の移ろいゆく四季を、現在をモノクロ、過去をカラーで撮影し、クローズ・アップやスローモーション、オーバーラップといった技巧と音楽を駆使しながら叙情性を盛り上げます。
中国の悠久の大地は、この映画のもう一人の主役といってもいいでしょう。
真っ白な雪原、黄金色の麦畑、青々とした森と白樺の林、丘陵に続く一本道……。
そして、そこにチャン・ツィーのみずみずしい表情と、けなげで一途な思いが見事にオーバーラップ。
この映画のような、「純愛」を、映画として表現しようとするなら、やはり舞台は、40年前の中国の寒村くらいにしておかなければ成立しなかったのかもしれません。
彼女の行動のひとつひとつを、映画から切り取って、今の常識に照らし合わせれば、「ストーカー」「キモイ」「アリエナイ」で、片付けられてしまいそうです。
ヒロインが、画面の中でうれしそうに笑うとき、 自分の口元も、おもわずそれにシンクロしておりました。
よかった。まだ自分もこういう映画を観て、感動できる感性を持ち合わせていた。
観終わって、これを確認できたとき、正直ホッとしましたね。
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