必要のないものを次から次へと買いまくり、借金をしてまで買い物をしようとする病気です。
若い女性を中心に増えているそうです。
実は、ここ半年の自分を振り返ってみると、かなりこの「病気」に接近していたのではないかと思い当たります。
白状してしまいますが、僕はこの半年で、ざっと150万円近い「買い物」をしています。
冷や汗タラリですね。
きっかけは、使っていたパソコンが、そろそろ限界にきていたこと。
これが、かなりのストレスになっていたという状況はありました。
WINDOWS XP も、どこかで、VISTA にしなければいけないなと思っていた、4月のとある日曜日、パソコンが、その日何回目かのフリーズをしたんですね。
この瞬間に、僕の頭の中で、なにかがプチンと切れました。
速攻で、自分の貯金残高を確認した後、近くのノジマ電気に駆け込み、一気に4台のパソコンを全部買い換えてしまいました。
そして、この後です。怒涛のごとく、周辺機器を新調しはじめたんですね。
一部屋が、たちまち、お役ごめんになったパソコン関連機器で埋まっていきました。
そして、そこに北京オリンピック。
勢いは止まりません。
パソコン周辺機器から、AV機器にまで、「買い替え」「新調」は、拡大します。
そこに、結婚した弟の新居で使う、電化製品買い揃えの依頼。
これは、もちろん、僕のお金ではありませんでしたが、この勢いでイケイケの買いモード。
最初は、「必要なモノ」だけを買うというつもりだった行為が、いつのまにか、「欲しい」から買うというモードになっていた自分に気がついたときは、ドキリとしました。
我に返ると、この原因はハッキリしていました。
この「買い物大行進」が、始まった時期は、ちょうど会社の仕事のやりくりがつかなかった事情で、ほとんど出勤。休みが取れなかったんですね。
このストレスは、やはり大きかった。
このストレスを埋めるために、僕の「買い物」は、日を追ってエスカレートしていきます。
「休みが取れない」「自分の時間がもてない」というストレスは、およそ3ヶ月続きました。
買い物がストレス解消の手段となっているという人は案外多いかもしれません。
買い物依存症という病気になると、買い物したい気持ちに歯止めがきかず、ストレスがたまるとすぐにそれを買い物によって解消しようとするようです。
買い物依存症はプロセス嗜癖とも呼ばれ、買う”物”よりも”買う行為”自体に快感を覚える依存症です。
ただ、僕の場合は、明らかに「新品」の使い心地に快感を感じておりましたから、まずは「モノ」ありき。
買い物の行為自体に快感をかんじるということではない分、病気としての「買い物依存症」の一歩手前だったということはいえそうです。
そして、現段階では、明らかに、その反動がきています。
「ヤバイ、使いすぎた」
ガールフレンドには、「物欲の権化」みたいなことを、さんざんいわれてきましたから、ここは正気に戻って素直に反省。
とりあえず、夏の賞与は、ガッツリと減ってしまった貯金の補填にまわしました。
そして、今我に帰ってはじめたことは、この半年にわたる新品買い替えシリーズの結果、使わなくなったもののヤフオク出品。
とりあえず、セッセと売ることにします。
さて、宮沢りえが、この「買い物依存症」の女性に扮した映画が、「トニー滝谷」
村上春樹原作の同名短編を、市川準監督が映画化。
イッセー尾形がトニーを淡々と演じ、英子役の宮沢りえも、妻の“身代わり”となる女性との2役を巧みに演じ分け、言いようのない焦燥感を絶妙に表現します。
幸せな結婚生活で唯一の問題は、英子が次々と新しい洋服を買うという依存症であること…。
ゆっくりとした水平移動のカメラワークが絶妙でした。
そして、西島秀俊のナレーションと、役者のセリフをシンクロさせる独特の演出。
坂本龍一作曲のピアノ曲。
多くの要素がマッチして、「化学反応」を起こした映像が伝えるものは、孤独であることの哀しさと、そして心地よさの二面性。
これは、一人暮らし暦20年を超える、僕にもよく理解できます。
結局、人間は死ぬまで独りであると納得させられながらも、それはそれで、やはり「幸せ」ではないのだという思いが、胸に去来します。
監督の市川準曰く、
「映画化に際して、はじめて気が付き、そして一番難しく感じたのは、村上春樹氏の小説に登場する人物達から「表情」というものが読み取れない点でした。
極端に言うと、「顔」のない物語のように感じました。」
そして、この感覚を表現しようとした結果として、この「トニー滝谷」は、これまでの市川監督の、どの映画にも全く似ていない、不思議な感触の映画になったような気がします。
空白の多い画面。
小劇場のようなシンプルな舞台を高台の空き地に建てて、その舞台の微妙なアングル替えと、簡単な飾り替えだけで、ほとんど全てのシーンを撮影したこと。
主人公の男女二人にそれぞれ二役を演じてもらって登場人物を極力少なくしたこと。
プリント手法に脱色処理を施して色調を浅くしたこと。
これみな全て、村上春樹氏の、小説世界が、監督に要求したことなのでしょう。
風が吹き抜ける丘の上に組まれたステージでの、写真家・広川泰士による撮影。
坂本龍一の音楽。
まさに適役と言える主演俳優2人。そしてナレーション。
すべてが相まって、「幸せ」がいとも簡単に、こぼれ落ちてゆく儚さや、満たされない心を抱えながら生きることの切なさが、なんともしれない独特の「空気感」の中で描かれています。
50年間、自分の好き勝手にオタク道を邁進してきた僕は、幸か不幸か、一人で暮らすことの快適さにドップリ漬かりすぎて、「孤独」を感じるということはありませんでした。
「寂しい」という感覚が麻痺してしまったのか、あるいは、もともと持っていなかったか、どちらかだったでしょう。
しかし、普通の人間なら、感じてあたりまえの感覚を持ち合わせていないということに、最近は「これはこれでヤバイ」と思いはじめています。
コメント