真保裕一のサスペンス小説を映画化するにあたり、この映画の監督とプロデューサーは、きっとこんな会話をしたのでしょう。
「『ダイハード』みたいな、映画にしたいねえ。」
「そうだなあ。日本には、ああいうスケールのパニック映画ってないからねえ」
「で、誰にブルース・ウィルスをやらせようか」
「織田裕二なんてどう?」
「いいねえ」
「そうそう、『クリフハンガー』も、捨てがたいぞ」
「いいねえ。いっそのこと、一緒にしちゃおうか」
というわけで、今回見たのは『ホワイトアウト』
(これ以降、映画の結末に関わる表記がありますので、この映画未見の方はご注意を)
この映画は、日本最大のダムを占拠したテロリストから人質を救うべく立ち上がった青年の活躍を描くパニックアクション映画。
主演は、織田裕二。
2000年に映画化され、監督は本作が劇場映画デビュー作である若松節朗。
タイトルの「ホワイトアウト」とは、激しい吹雪により視界が奪われ、自分の位置が全く分からなくなってしまう事を言います。
さて、この映画、主演に織田を起用したことで、興行的には成功しました。
しかしながら、基本的に、日本映画は、この手の作品を作るのは、上手くないというのが僕の偽らざる感想。
スーパーヒーローではない、非常に人間臭い生身のヒーローが、図らずも、とんでもない現場に一人で取り残されて奮闘する。
このあたりの設定は、ほぼ「ダイハード」と一緒。
ダイハードのブールース・ウイルスは、この「生身」の人間臭さというあたりを上手く演じて、映画のクオリティに貢献していましたが、織田裕二の場合は、いかにも中途半端。
(感じ方には、個人差があります)
この日本屈指の人気者に、ドンパチやらせて、悪党一味を一網打尽という設定は、時代劇やテレビゲームならいざ知らず、現代映画でやってしまうと、「暴力礼賛」などといわれてしまって、ちと上手くない。
したがって、織田が、相手一味のメンバーを殺すシーンの描き方には、どれも躊躇がありますな。
このあたり、アメリカ映画は、エンターテイメントと割り切っていて、迷いがないわけです。
「正義」の御旗を掲げていれば、「殺人」もやむなしというお国柄が、映画にもきちんと出ています。
しかし、これゆえ、この手の映画が、きちんと娯楽映画として、成立するわけですね。
しかし、日本の場合は、やはり、娯楽の中にも、「憲法九条」で刷り込まれた「戦争放棄」のDNAが見え隠れする。
どんなに、正当な理由があるにせよ、主人公が、平気な顔して、人を殺していき、しかもそれを「かっこいい」というふうには描けないんですね。
このあたりの、国民性の違いが、映画の作り方に、如実に反映しました。
結局「エンターテイメント」に、徹することができなかった分だけ、この手の映画に不可欠な、カタルシスを描き切れなかったということです。
場面場面を吟味すれば、制作費もそれなりにかけていたことはわかりますが、残念ながら、そのスケール感が、画面からは、感じられなかったという点も痛い。
要するに、「ダイハード」を見終わった後に、素直に言うことのできた「スゲエ」という感想が出てこなかったというのが、この映画の欠点。
やはり、いろいろなところに配慮しすぎて、ちょっとお行儀よく作りすぎましたな。
主人公が、寸でのところで、爆弾のリモコンをとめる止めるシーンも、止めた時計が、爆発1秒前。これもいただけない。
作り手としては、「どう?手に汗握ったでしょ?」といいたいところでしょうが、これは逆にリアルさにかけてしまいました。「できすぎでしょ」という感じ。
これは、ラストで織田が、あの大柄の 松嶋菜々子をお姫様だっこをしたまま、雪道を一晩歩いて、救助隊のヘリのところまでたどり着くというシーンにもいえます。
このあたりは、主演の織田裕二に対するヨイショがみえみえ。
ここは、いち映画ファンとして、言わせてもらいましょう。
「ありえねえ!」
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