さて、もうひとつ毎週録画して、見ている番組のひとつが、同じくNHKの「その時歴史が動いた」。
続いて見終わったのが、「名君の改革に異議あり! ~徳川宗春 華麗なる反乱~」
もちろん、いつものように、DVDに焼いて通勤車中鑑賞。
破綻しかけていた幕府財政を再建した江戸幕府「中興の祖、」徳川吉宗が進める「享保の改革」に反発した大名のお話です。
大名の名は、徳川御三家、尾張藩藩主の徳川宗春。
兄の死去により、尾張徳川家を相続することになった宗春は、享保16年に名古屋城入府。
この際の宗春一行は、「倹約令」のご時勢どこ吹く風の華麗な衣装に身を包み、鼈甲製の唐人笠を被り金糸で飾られた虎の陣羽織姿で尾張の町をパレード。
この異様な風体は、名古屋の人々の度肝を抜きました。
宗春は藩主に就任すると、自身の著書『温知政要』を藩士に配布。
その中で宗春は「行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる結果になる」、「規制を増やしても違反者を増やすのみ」と主張。
享保の改革に真っ向から異議を唱え、名古屋城下に芝居小屋や遊郭を誘致するなどの開放政策を実施。
この結果、倹約令で火が消えたようになっていた日本各地の町を尻目に、名古屋の街だけは活況を呈するようになります。
江戸幕府の目にヒヤヒヤものの重臣たちの心配をよそに、町民たちは、この話のわかる殿様にやんややんやの大喝采。
宗春は、町民たちによる芝居のモデルとして担ぎ出されるほどの人気者となります。
しかし、そこは人間の業の悲しさよ。
宗春の理想と思惑とは異なり、尾張藩士民は、この「ゆるーい」治世に次第に甘えるようになり、放蕩と快楽をむさぼるようになります。
「よく働きよく遊べ」ならば理想だったかもしれませんが、ここから「よく働き」が抜けてしまったらどういうことになるのか。
藩の財政は、またたくまに赤字に転じます。そして、当然ながら、将軍家との対立も深刻化。
やがて、宗春は、将軍吉宗をバックにクーデターを起こした国元の藩重臣らにより名古屋城三の丸に幽閉。
以後69歳で没するまで、二度と再び、政治の表舞台に立つことはありませんでした。
徳川宗春の評価は、現在でもまっぷたつ。
宗春の政策によって名古屋が大都市に発展する礎が築かれた事は確かであるとする肯定的な評価もあれば、自由経済政策理論というお題目に名を借りた、単なる放漫財政であるとする評価もあり。
歴史の結果論で言えば、やはり、なにやかにやといっても、約経済政策を貫き、空になっていた幕府の蔵に、十五年ほどで百万両の貯蓄を復活させた倹八大将軍吉宗に軍配はあがりましょうが、まがりなりにも、天下の将軍に、正論をもって立ち向かったのは、江戸時代の藩主では、この徳川宗春が、ただ一人ということになります。
さて、恥ずかしながら、ここでまた、運送会社の課長としてはハタと考えます。
究極の選択で考えましょう。
耳障りのいいお題目を並べ奉り、社員には寛大で人望もある管理者と、規則を守れとやたら口うるさいことで、社員から疎まれてしまう管理者とでは、どちらが会社にとって、望ましい管理者であるか。
まあ、こういったことはバランスでしょうから、一元論では語れないのかもしれませんが、僕は「人望がある」というところだけ除けば明らかに前者。
「口うるさく言われる」のも「「口うるさく言うのも」嫌いなハンパ者が、成り行きで管理職などになってしまったクチですから、こういう話をきけば、その自分の弱点を正論化できる「自由」なんていう言葉には、節操なく飛びつきたくなってしまいます。
徳川宗春よ、よくぞいったってなもんですね。
まあ、もっとも、僕の場合は、彼の『温知政要』のような、正論があるわけではなく、ただ現状に批判的な態度を、問題意識に摩り替えている点と、社員に対して、ゆるく接することで、かろうじて嫌われていないというだけのものですが。
さあ、そうして見回してみると、我が社にも、口うるさいことで疎ましく思われているという、ある意味、不器用な管理職もいます。
さて、改めて考えてみましょう。
どちらの、管理者が会社にとって望ましい管理者か。
徳川吉宗と、徳川宗春の戦いの決着は、歴史が示すとおりです。
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