この「浮雲」を見た小津安二郎はこういったそうです。
「このシャシンは自分には撮れない」
この映画は、内外を問わず極めて高く評価されましたが、その評価のほとんどは成瀬の演出と、高峰の演技に対するものだったようです。
これで、森雅之は相当まいってしまったんですね。
「おいおい、ちょっと待て。俺はどうなんだ」というところでしょうか。
実際に、この映画が公開された後で、彼は、「俳優を辞めたい」までと漏らしていたということですから、この世間の評価は、よほどこたえたんでしょうね。
でも待て待て。
やはり、この森雅之の演技なくしては、この映画は成立していないのではなかろうかと思うのは、僕だけでしょうか。
女たらしでありながら、女たらしには成りきれない。
女の純愛に心を動かされながらも、それを受け止めきれない。
男のズルさと、だらしなさを多分に持っていながら、最後には、女の死に顔に、紅をぬり、さめざめと泣き伏す男。
自覚と悪意のない女たらしであっても、そこに、そこはかと漂う色気と、弱さを隠そうとしないことで、憎めなさを感じさせてしまう中年男・富岡を見事に演じきった彼には、もっと正当な評価がされるべきだろう思いますね。
このままでは、彼も、浮かばれないなあ。
この人の父親は、「カインの末裔」や「或る女」で有名な小説家の有島武郎。
母親は、男爵家の娘だった人。
彼は、京都帝国大学を中退して俳優を目指しますが、まあそんなわけで、この人には、天性の格調高き「文芸系DNA」というものが、生まれながらに備わっているわけです。
だからこそ、女と場末の連れ込み旅館にしけこんで、痴話げんかをやらかしても、不思議と下世話にならない。
若い若い岡田茉莉子に、いやらしい視線を投げかけても、セクハラにならない。
まあ、そんな難しい役どころを、実に淡々と自然体で演じているんですね。
おそらく、この映画の彼の行動を、言葉だけで説明すると、「とんでもないやつ」ということになるはずです。
でも、もしこの映画を見た印象で、それがそうとは感じさせなかったとしたら、その分は、紛れもなく、森雅之の功績だと思ってくださいまし。
高峰秀子もそうですが、この森雅之にしても、今の日本で、この役を、かくも格調高く演じられる俳優はいないでしょう。
「人生きれいごとばかりは、まかり通らない。男と女も一緒」
是非、この映画を見て、男の色気というものを感じ取ってくださいませ。
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