あけましておめでとうございます。
元旦は、神奈川県の三浦半島の南端にある小網代の森へ行ってまいりました。
ここは、関東地方では非常に珍しい、完結した水系を含む自然の森が残っている場所として、
知られているところです。
完結した水系とは、つまり、三浦半島の中央部の引橋の谷戸の奥から発生した小川が、
ほとんど人間の手に触れることなく、中央の谷、湿原を経由して、小網代湾の干潟まで、
自然のままで注いでいるということです。
観光地でも、公園でも、ハイキングコースでもない場所なので、ある意味では味も素っ気もない
ところなのですが、元々は田園だったところが、次第に放棄されてゆき、幸か不幸か、
自然に戻ってしまったという場所。
それが、このあたりの開発計画が持ち上がってから、今度は、自然保護だのなんだのという、
話が盛り上がり、今度は、この森にハイキングコースを作って、自然を観察する公園にしようという
お話。
なにやら、人間様の都合で、振り回されているところです。
まあ、おそらく、日本列島のすみまでいけば、こういう手付かずの自然という場所は、いろいろと
あるかもしれません。
しかし、人間様の都合が、幅を利かせている関東地方にあっては、この小網代の貴重な自然保護は、
今後の扱い方も含め非常に興味深いところです。
この森は、今ちょうどハイキングコースをつくっているところ。
どういうかたちにせよ、今まで放っておかれて、自然に戻れた場所が、、また人間様が、
人間様の都合で、環境保護という名前のもとに介入をすることになるわけですね。
僕は、もちろん、環境保護が悪いというつもりはありません。
いいにつけ、悪いにつけ、人間様は、いまや、地球上でいる生き物の中で、一番地球に
影響を与える生き物になってしまいました。
その責任は当然感じてしかるべきでしょう。
しかし、僕には、そうして、自然に対して、取ってゆく態度が、どうにも偉そうに見えてしょうがない。
どういいましょうか。
てめえだって、立派に自然の一員なくせに、どうも、自分を自然と思っていない節がある。
それよりもどこか、自然よりも一段も二段も高いところから、自然を見下すという視線になって
いる気がしてしょうがないんですね。
そもそも、「保護」するという言葉が気に入りません。
つまり、人間は、今や自然の「保護者」だといっているようなものです。
そんな、偉そうな態度だから、時々、人間は、自然から、偉いしっぺ返しを食らうわけです。
だいたい、なんだかんだといっても、人間なんて、まだまだ、自然に太刀打ちできるような、
存在ではないですよ。
人間は、すべての生物の中で、だんとつといっていいほど、「脳」を発達させてきました。
それが、人間が、地球上の生物の生態系のトップに君臨する地位を作り上げてきたのは
間違いないのですが、この「脳」というやつが、いろいろと本を読んでいくと、どうにも怪しい。
人間は、自分たちの、その賢い脳の中にあることをだけを、せっせとカタチにしてきました。
それが、いわゆる文明といいますか、ひらたくいえば「都市化」です。
しかし、自分たちの脳には、意識できるものの他に、意識できないものというものもあるということを
忘れている。
それが、いわゆる「無意識」。つまり、「都市化」の、正反対にある「自然」です。
つまり、人間にはコントロールできないものが、自然なんですね。
だから、「保護」という言葉は、絶対に当たらない。
だって、保護という言葉は、人間が人間の頭で考えていることだからです。
それが、自然にいいかどうかなんて、わからないと思いますよ。
いい例があります。米や稲を、害虫から保護しようとしてまいた農薬が、反対に自然の生態系を壊している
なんてことを、我々は平気でやってきましたからね。
結局は、人間のおごりか、人間の都合なんです。
人間様は、地球上で、ちょっと偉くなりすぎてしまいました。
完全に勘違いしています。
やはり、もうちょいと、自然に対して、謙虚にならなければいけないと思います。
自分たちとて、自然の一員。
だから、保護とか何とか言うのではなくて、ちゃんと自然と折り合いをつけて、どちら様も、
今自分の身の回りにある自然と、それぞれが、それぞれのスタンスで謙虚に付き合っていく。
それが、一番、自然に対しては、自然なかたちの、接し方ではないかと思います。
自然も生かし、自分たちも生かさせてもらう。
こちらが、そういう態度で臨んでいれば、、多少自然を破壊しても、自然だって、そうそうは、
へそを曲げないと思いますよ。
日本人は、実は、その辺のところをたいへん上手くやってきたんですよね。
奈良や京都、鎌倉の神社仏閣を見ると、よくわかります。
実に、自然と調和し、強調した形で佇んでいます。
だから、僕たちは、あの中にいると、とても落ち着くんですよね。
自然を排除した都市空間でもなく、人工を廃除した、手付かずの自然でもないところ。
自然と人間が、うまいこと、調和してやっている空間は、人間にとって、たいてい心地よいんです。
僕らの身の回りにも、昔は、「里山」というのがありました。
これも、裏の山の自然と、人間様の都合を、ほどよく折り合いをつけて、共有していた場所です。
これが、日常レベルで、あちこちにありました。
それが、いまや、その里山自体が、保護される「観光地」になってしまっています。
里山、いかに減ったかということです。
いにしえより、ずっと自然とうまく付き合ってきた我々が、次第に、自分たちの都合を優先し、
自然に対して、謙虚さを忘れ、上から目線になってきた。
それが今の、環境破壊の正体でしょう。
環境保護も、実は、それの裏返しに過ぎません。
まあ、身もふたもないことを言ってしまいますが、どうも、人間様の、「脳みそ」の考えることは怪しい。
そう思っていたほうが無難です。
そして、怪しい怪しいと、疑心暗鬼になって、どうしていいかわからなくなったら、答えはひとつ。
自然の中に身をおいてみることです。
頭の中を、空っぽにして、自然の中に身をゆだねてみること。
それで答えがわかるとはけして言いません。
いや、むしろ答えなんてわからないからこそ自然です。
ただ、自分自身も、まぎれもなく、自然の一員だという立ち居地で、自然の中にいて、
そこで、なにかかんじたとしたら、それはたぶん、限りなく正解に近いような気がします。
一生懸命本を読んで、人間の怪しい頭で考えた答えなどより、はるかに現実的な回答かもしれません。
正月そうそう、なにを小難しい話をしているかと文句を言われそうですが、
この半年間、いろいろと環境や自然に関する本を読んできましたので、
2013年の年頭に当たって、ここらでちょっと総括しておくことにします。
人生90年時代。
僕が、90歳まで生きられるかどうかはわかりませんが、定年退職後の人生が、仮にまだ30年もあるなら、
ここはもうワンキャリア勤め上げて、みたいという色気はあります。
やりたいことは、やはり農業ですね。
もちろん、今の僕は、農業の「の」の字も知らない身ですが、これから定年まで、いろいろと勉強させてもらって、老後は、裏の畑で野菜作り。
自然様と正面から向き合わせてもらって、細々とでも、生かせてもらえるならば、これに過ぎる幸せはありません。
さて、2013年がスタートしました。
皆様におかれましては、どのような一年を送ろうとお考えでしょうか。
どうか、本年が、皆様にとって、実り多き年でありますようお祈り申し上げまして、
今年も、ずらずらと、プログを更新してまいりますので、よろしくお願いいたします。