ヒッチコックの映画の中でも、そのホラー度においては、この映画はダントツでしょう。
いろいろな意味で、この映画は、それまでにない恐怖映画だったというのは定説。
とはいっても、僕がこの映画を始めて見たのは大学生の頃。
一番頭でっかちの頃でしたから、ヒッチコックに関しては、いろいろな文献をあさって
そこそこのウンチクを仕込んでいましたから、ヒッチコックの挑戦した
新しい「仕掛け」は、みんな知識としてはわかって鑑賞していましたよね。
ですから、その意味では、当時の観客のナマの「驚き」は、これはもう想像するしか
ありません。
ヒッチコックが、こういっています。
「観客は、お金を払って映画館の客席に座って、さあ、怖がらせてもらおうじゃないのと
構えてくる。これは少々厄介だが、私としては、これは受けて立たざる得ない。
私は、この映画を作るときには、次にどうなるのか絶対に観客にわからないという展開を
心がけたつもりだ。」
「サイコ」といえば、なんといってもあの有名なシャワールームのシーン。
確かに、あのシーンの衝撃は映画史上に残ります。
直接ナイフが刺さるカットはないけれど、それを想起させる効果音。
ジャネット・リーの口、手、足のアップ。
あの金属音的音楽。
影で顔の見えない殺人者。
シャワールームに犯人が忍び寄る影から、立ち去るまでの55カット。
あのシーンだけで、ヒッチコックは、7日間をかけたといいますから、シャワールームの
刺殺シーンはこの映画最大の見せ場であることに異論のある人はいないでしょう。
ただ、あのシーンが観客に強烈なインパクトを与えたのは、もちろんその映像的なインパクト
だけではありません。
なんといっても、それまで観客が、間違いなくこの映画の主役だと思っていたヒロインを
映画のほぼ真ん中で、ああやって、あっさりと殺してしまったこと。
そんな映画、今までなかったわけです。
(日本では、「サイコ以前に1本だけありました。黒澤明の「生きる」がそうです)
え?主人公が映画の途中でしんじゃうの?マジかよ。じゃあ、この後どうなるの。
観客は、映像のインパクトと共に、映画のど真ん中あたりで、先が読めない
サスペンス状態に追い込まれます。
観客はここで完全に、ヒッチコックの術中におちてしまうわけです。
「どうなるかわからない展開」を、観客に最後まで持続させるように、
脚本もよく練られています。
あのノーマン・ベイツも、その他の登場人物も、誰が犯人でもおかしくないように
キャラクター設定を意識的に明確にしていないのはあきらか。
どの人物も、最後までキャラクター設定は、「揺れて」います。
そして、この映画を大ヒットさせたひとつに、ヒッチコックの巧みな「宣伝」があります。
たとえば、予告編。
映画の予告編で彼がやったことは、映画のセットの中を、彼自身が歩きながら、
映画の見所を説明したところ。
映画本編の映像は、ワンカットも使われませんでした。
こんな宣伝も、この映画がはじめて。
そして、上映する映画館には、この映画は絶対に途中から入場することが出来ないように
徹底させたことも有名なお話。
その秘密主義を逆手に取って映画の宣伝をしたことで、観客はいやがうえにも、
興味をそそられ、映画館に足を運んだというわけです。
恐怖映画の演出において、「すべてを見せないで、観客に想像させる」ことが、
どれだけ恐怖心を観客に与えるかということを熟知したヒッチコックの戦略が
ものの見事にあたった映画といえます。
いま「サイコ」を見てつくづく思うことは、そういう映画の知識なんてものはまったくないサラの
当時の観客の状態で、この映画を見て驚かせてもらいたかったということですね。
この映画は、それ以降、恐怖映画のお手本のようになってしまいましたから、
そういう映画をずっとみてから、「サイコ」を見たという、僕らの世代の映画ファンに
とっては、リアルタイムで驚かされた当時の観客に比べて、そのショックは
いささか落ちるのはやむなし。(逆に、定番の重みはありますが)
恐怖映画の真髄というのは、いかに、それまでにない斬新な演出を観客に見せられるか。
どんなに制作費をかけて、演出を「おおがかり」にしたところで、こちらに展開が
想像できて、そのとおりにしか進行しない映画ほど、つまらないものはない。
怖い映画を作りたいなら、お金よりも、頭を使え。
ヒッチコックは、この顔をして、そんなことを言っているように思えます。