「アメトーーク」では、人気者なのがこの二人。
川哲朗と狩野英孝。
このツーショットは、同番組ではくよくみかける。
暮れの特番でも出ていたので、視聴率を狙うには鉄板なのだろう。
数々のひな壇芸人を育ててきた「アメトーーク」だが、この二人の場合は、
ひな壇にいるよりは、その反対側に座ることのほうが最近は多い。
つまり、ひな壇からつっこむのではなく、つっこまれる側で活躍するのである
芸人のカテゴリーで言えば、「いじられキャラ」「リアクション芸人」というらしい。
芸というよりは、お二人の素のキャラが、そのままテレビ的に成功しているケースである。
確かに、ふたりの「いじられ模様」は、面白い。
リアクションが計算したギャグでないところが、リアルで、楽しい。
とにかく、なにをしても、なにを言っても、そこに、思わず突っ込みたくななってしまうネタが
ふんだんに織り交ざるので、イジる方は、それをただ指摘してニヤニヤしていればいいのだ。
そして、それは観ている側にとっても、たまらなく快感になる。
それがそのまま、視聴率という評価になるのだから、バラエティにとって、
こんなおいしい素材はいないのかもしれない。
とにかく、キャスティングさえすれば、なにかしでかしてくれるのだから、たまらない。
特に、芸という芸が見当たらないと言うと辛口かも知れないが、そんなお二人にとっては、
この異様な「持ちあげられ方」は、いったいどのように受け止めているのか。
興味をそそるところである。
この二人を観ていると、僕はなぜか中学時代のクラスメートを思い出してしまう。
こんなキャラが、やはりクラスにもいた。K君である。
K君は、ちょっと業界や、流行りのことにはうるさいよ風なお調子者のオーラを放ちつつ、
周りから見れば、つっこみどころ満載のやつである。
ビッグマウスで、いうことが、やたら大きいけれど、肝っ玉は小さい。
俺って結構スゴイんだぜと言う割には、小心者で意気地がない。
しかし、明るい。
出川哲朗と狩野英孝が、中学時代そうだったろうとは言わないが、
しょうがない。僕の中では、K君のイメージと両名は、同じ括りになってしまうので、
失礼かもしれないが、そういうことしで話を進める。
何がいいたいのかというと、僕の中では同じく括りであるはずの二人が、
決定的に違うところがあるのだ。
何が違うのか。
それはつまり、人気である。
そう、このキャラである出川哲朗と狩野英孝は、世の中にも、そのキャラをそのまま
認知してもらえて、しかも視聴率も稼げる人気者なのに、
僕の中学時代のクラスメートK君は、残念ながら、人気者にはなれなかった。
二人と同じように、クラスの連中にいじられて、周りをゲラゲラ笑せてはいるのにである。
特に、女子からの嫌われ方はすごかった。
「生理的にいや。」
「カン違いも甚だしい。」
彼をいじるクラスのワルたちも、それをを見て、K君いじりをエスカレートさせる。
その「いじり」は、時として、「いびり」や「いじめ」にまでエスカレートしているなと
振り返らされることも幾度となくあったことは、言っておかなければなるまい。
ただ救いだったのは、多分に、K君の天然の明るさがあったことは、いっておく。
これで、決定的に陰湿になることはなかった。
K君の本当の気持ちは、今となってはわからないが。
さて、なにがいいたいのか。
つまり、こういうことである。
ヒトを「いじる」ということは、周囲の人にとっては、たまらなく楽しいことなのだということ。
いいとか、悪いという話は、とりあえずおいておく。
とにかく、それで一本のバラエティが成立するくらい、人間のエンターテイメントとしては、
王道なのだということなのである。
人をいじることによって、自分が棚に上がれる快感。自分はそちら側ではないとホッと出来る安堵感。
イジる方も、そのトークで商売が成り立ち、お客さんも大喜び、そして、視聴率も取れるのだから、
プロデューサーとしては、これを仕掛けない手はあるまい。
「いじり」は楽しいのである。
しかし、このエンターテイメントは、リスキーでもある。
チョット間違えば、陰湿な「いじめ番組」になってしまうので、そのあたりのさじ加減が難しくなる。
自分たちは、セーフだろうと思っていても、うるさい団体からつっこまれてもいけない。
でも、「いじり」がゆるければ、もちろん番組は面白く無い。視聴率も取れない。
バラエティなのだから、基本楽しくなくてはいけない。
だから、やはり、どこまでが、楽しく笑えるところなのかについては、プロたちのセンサーの、
感度は研ぎ澄まされる
そして、いまのところ、制作側のそのバランス感覚は、そうはズレてはいないのだろう。
出川哲朗と狩野英孝が、バラエティの華として成立しているからである。
中学時代の、K君を突っ込んでいた連中には、やはりそのあたりのギリギリの
バランス感覚はなかった。まだ未熟なのだから、しょうがないといえばしょうがない。
彼らには、背負っている視聴率という縛りも、抱える生活もない。
ただただ、K君を突っ込むことが、自分たちにも楽しく、そして周りもそれを
喜んでしまっているのだから、これは、中学生ならブレーキが効かなくなるのはわかる。
僕は、子供もいないし、教育委員会でもないので、大上段に構えて、
「いじめ」はやめましょうというつもりはないけれど、せめて、どこまでが、「いじり」で、どこからが
「いじめ」になるのか。
そんな「加減」の部分は、こういう人気バラエティ番組からでも、学習できますよということは
感じる次第である。
芸能界には、かつて、いじめられっ子だったというタレントや、いじめっ子であったという
キャラクターが異様に多い。
つまり、そんな経験の中で、「いじる」ということに対して、よくも悪くも、そのセンサーが
敏感に働くようになったという人が多いのだろう。
とにかく、最終的には、「笑い」で締めくくらなければ、「いじり」はタレントにとっても
商売として成立しないのだから、そのあたりの境界線については敏感になって当然である。
特に、「毒舌」などといわれているタレントにとっては、そのあたりのバランス感覚は、
商売の生命線になるのだから、なおさらだ。
こんなことを書いて、あんたは、いじめを助長するのかとつっこまれそうだが、
そんなつもりはサラサラない。
ただ、臭いものに蓋をするだけでは、いじめは無くならないだろうなあということだけは、
しみじみ思う。
つっこまれることは承知で言うけれど、
人間は、どちら様も今どきは、キャラクターでカテゴライズされてしまうので、
自分が、いじる側になるのか、いじられる側になるのかは、わからないかもしれないけれど、
例え、どちらになってしまったとしても、ちゃんとその加減と対応技術は学習して、うまく
自分のキャラと付き合得るようになれれば、「いじめ」は、「いじめ」でなくなるかもしれない。
そうすれば、イジル側も、やがては有吉やツッチーのように、ちゃんと芸能界で居場所を確保できる
ようになるだろうし、イジられる側になったとしても、出川哲朗と狩野英孝のように、
人気者になれるかもしれないよというお話です。
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