いわずもがな、「富嶽三十六景」を描いたのは、江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎。
満八十八歳まで生きたといいますから、この時代としては、掛け値なしの長寿。
それだけに、生涯に残した作品は、版画、肉筆画、本の挿絵など、ジャンルを問わずに3万点。
日本だけではなく、ゴッホやモネなど、当時のヨーロツパの印象派と呼ばれる画家たちにも、多大な影響を与えたのは有名な話。
アメリカのライフ誌発表による、「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」の中に、日本人としては唯一人選出されている偉大な芸術家です。
その彼を一躍、浮世絵界のトップリーダーに押し上げたのが、かの有名な「富嶽三十六景」。
しかし、このシリーズがはじまった、文政6年には、彼はすでに六十三歳。
そこから足掛け十年の歳月をかけて完成したシリーズでした。
当時の江戸は、空前の旅行ブーム。
今のような洒落たガイドブックのなかった当時、北斎の描く「富士山」は、江戸庶民の間で飛ぶような勢いで売れました。
北斎は、ある意味、日本で最初のプロの絵かきと言ってもよかった人物です。
というのも、それまでの画家たちは、洋の東西を問わず、みなパトロンに抱えられたお抱え絵描きたちばかりだったんですね。
従って、基本的に彼等の描く作品は「売り物」ではなかった。
しかし、北斎の描く浮世絵を購入したのは、みんな江戸の庶民たち。
つまり、パトロンがいなかった北斎は、江戸の町人たちに売れる絵を描かなければ食べていけなかったという事情があります。
これが、自由闊達で、縛られず、しかも庶民のバイタリティに満ち満ちた北斎の画風を生みました。
富嶽三十六景は、当時の庶民の生活を活き活きと描き込んであることも、作品の大きな魅力の一つ。
富士山自体も、遠景で捉えた構図、画面いっぱいにドカーンと描かれた構図など様々。
しかし、一つとして、同じアングルや、構図のものはありません。
あの波間に、富士山の遠景が覗ける「グレートウェイブ」は有名な作品ですが、
あのインパクトの有る構図は、今や日本が世界に誇る輸出産業になったアニメにも、そのDNAが脈々と流れていると言っても過言ではないでしょう。
安部総理は、日本のアニメを代表とするコンテンツ産業を、世界に向けて発信していこうという「クールジャパン」政策を、成長戦略の一つとして打ち出していますが。その意味でいえば、この葛飾北斎などは、その「クールジャパン」の先駆けとなった人物と言っても過言ではないでしょう。
さて、その彼の描いた「富嶽三十六景」(実際は、後から十枚追加されて四十六景が正解)には、だいぶ足りませんが、六景ほど富士山をイラストで描いてみました。
もちろん、キャンパスはiPad。
構図や素材は、葛飾北斎の時代では、描けなかったものを積極的にチョイスしてみました。
まずは、「富嶽六景」とくとご覧あれ。
こちら、手前は茶畑。
我が社のある埼玉県入間市は、隣に狭山を抱えるお茶処で、茶畑が一面に広がっているところですが、さすがに富士山は、これほど近くには見えません。おそらくこれは、富士山のお膝元、静岡県の茶畑でしょう。
これは夕焼けの富士山。
「富嶽三十六景」には、「赤富士」はありましたが、街の灯がポツポツと灯る、夜景は、まだなかったですよね。
これも、富士山の麓を疾走する新幹線を捉えた構図。
富士山と新幹線という日本を代表するアイコンですから、もしも今の時代に葛飾北斎が生きていたら、取り上げた素材だったかもしれません。
これは、富士山の頂上を、飛行機からのアングルで捉えたカット。
これも、江戸時代に生きた、彼には描けなかった構図ということで一枚。
これは、中秋の名月ということで、Google から、「富士山 月」というキーワードで画像検索してヒットした写真を元にして描いた一枚。
最後の一枚は、夕闇の駿河湾から、富士山に隠れる月を描いた一枚。
葛飾北斎は、十年かけて、富士山の見える関東八州東海道を、自分の足で歩いて、四十六枚の浮世絵を描きましたが、iPad 使いのにわかイラストレーターとしては、すべてネットから拾ってきた画像を元に作成いたしました。
道楽イラストレーターとしては、どうしてもウケのいい人物画を描きたくなってしまうところですが、たまには風景画もおつなものです。
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