ブクレコに読書感想文を書いていたら、調子に乗って文字数オーバーになってしまいましたので、全文こちらに掲載いたします。
「なんだか教室が変なんだよ」
小学生の子供を持つ友人が、父親参観で学校にいって、我が子のクラスの授業風景を見てきて、ため息をつきながらの感想がそれでした。
僕は子供がいないので、自分の小学生だった頃の教室と比べるしかないのですが、友人から聞いたその教室の風景はちょっと衝撃的でした。
担任の先生は、淡々と授業してるのですが、先生に完全に背中を向けて友達と話している子供がいるかと思えば、ある子供はフラフラと教室の中を歩き回っている。
もちろん教室の前の方では先生の授業聞いてる生徒もいるのですが、参加していない生徒は完全に自由行動。先生も特に注意はしない。
それが、父親たちを呼んで公開している授業参観の授業なわけですから友人も目が点になったらしい。
聞いていた僕もちょっと信じがたい気持ちでした。
昨今の、ゆとり教育の実態これだとは言わないでしょうが、これはほとんど学級崩壊。教育放棄ではなかろうかと思わざるを得ない。
とにかく、教育の現場がちょっと大変なことになっているらしいという状況は、僕のような門外漢でもひしひしと伝わってきました。
ならば、その原因は何か?
ある人は、教師の品質が落ちているとからだといい、学校が悪いといい、ある人はモンスターと化した親やその家庭が悪いといい、ある人は社会環境のせいだと言う。
しかし、著者はその事は十分に認めつつも、当事者である子供たちも、それなりに、おかしくなっていると訴えます。
教師であったものの立場から言えば、「子供がおかしい」という発言をするのは、責任放棄を認めているようで、かなり勇気が要ることだと思います。しかし、著者は、あえてそう訴えます。
子供は純真無垢な真っ白なキャンパス。子供にはいついかなる時にも何の罪もない。諸悪の根源は、いつでも子供たちを取り巻く環境と大人たち。
「子供たちを守ろう」という御旗を掲げて、学校や教師たちに問題提起をする、したり顔の教育評論家たちに、著者は名指しで必死の抵抗を試みます。
そこには、教育現場の真ん中で、変わっていく子供たちを肌で感じながら、ある時は無力感にさいなまれ、ある時は手ごたえを感じながらも、社会環境と教育行政に翻弄されてきた、けしてきれいごとではない教師の長年にわたる経験値の重みがあります。
産業社会の中で「労働」を経験するよりも先に、市民社会の中で、「消費」を経験することで、社会的デビューを果たしてしまう現代の子供たち。
教育にも労働にも、子供たちは、金科玉条のように、経済社会での常識である「等価交換」の原則を持ち込みます。
学校や職場に行くと言う苦痛と引き換えに、自分たちに何が得られるのか。
この等価交換が成り立たなければ、子供や若者たちは、何の躊躇もなく学校も職場も放棄するとするなら、大人たちはどう対応するべきか。
それぞれの立場しか主張しない大人たちの脇で、子供たちが舌を出している気がしてなりません。