忘れもしない小学校4年生ときです。
この時期は、新しいクラスもはじまり、新しい友達の顔にも慣れてくる頃。
だいたい、健康診断はこの頃でしたね。
身長測定、体重測定、虫歯の検査と、そのたびに保健室に並ばされました。
そんな中で耳の検査というのもありました。
これは聴力検査ではなく、先生に対して直角90度に座って、耳の穴の中を見せる検査。
要するに、「耳垢」の確認です。
小学校4年のときの、この「耳垢」の検査で、僕は見事に引っかかりました。
大きな耳垢が詰まっているので、耳鼻科に言って取ってこいといわれたのは、検査から数日後のこと。
この耳垢がつまったままでは、夏から始まるプールの授業は受けられないぞということです。
学校からの診断書を、母親に渡すと、保険証と200円をもらって、出掛けたのは、商店街のはずれの黒埼耳鼻咽喉科。
歯医者も嫌いでしたが、やはり耳垢を取るだけといっても、病院へ行くというのは緊張しました。
受付をして、診療室へ案内されると、学校での検査の先生とほぼ同じ格好をした、かなり年配の先生。
僕の差し出した診断書にちらりと目をやると、腰が引けている僕を椅子ごと手繰り寄せて、顔を横に向かせます。
「ああ、これだね。あるある。」
先生はそういうと、耳になにか液体みたいなものをチュッチュッとふりかけて、取り出したのは耳かき棒ではなくピンセット。
多少痛いのは覚悟していたのですが、痛みらしい痛みは無く、耳の中でゴソっと音がしたかと思うと、すぐに「ホイ、とれたよ。」
先生の手のひらに乗っけられた耳垢は、それはそれは見事な耳垢でした。
口をあいたままため息をついている僕に向かってニヤリと笑って先生はこういいます。
「持って帰るか?」
僕は思わずコックリ。
それから、受付にいるナースに向かって「はい、じゃあ20円もらって。」と一言。
僕は、握ったら崩れそうな耳垢を手のひらで包んで家に帰ると、マッチ箱の中に、そっとしまいました。
この日からですね。
僕の、耳垢に対する異常な執着がはじまったのが。
どういうことか。
つまり、あの見事な耳垢を、どうしても自分の手で、自分の耳からかき出したいという衝動です。
簡単に言ってしまうと、耳垢を取るのが完全に大物狙いになったということです。
耳垢なんて、とれればいい。
要するに、耳の中からなくなればいい。
そういうことではありません。
耳垢を手前から、カリカリと削っていって、細切れにしていくのは耳かきの邪道。
どうせ取るのなら、できる限り、耳の中で固まった原型の状態のまま書き出す、もしくは引っ張り出すのが美しい耳かきというもの。
これに、とことん、こだわってしまうようになったわけです。
そうするとどうなるか。
まず、耳の中に違和感を感じ出しても、すくに耳かき棒は持ちません。
そこそこの形と大きさに熟成するまでは放置プレイ。
よし、そろそろだなと思ったら、やっと耳かき棒を手に取ります。
そして、耳垢に、耳かき棒がかする手応えをを感じながらも、耳かき棒の先は、出来る限り、耳瘻孔の奥を目指します。
耳の構造として、耳の奥ほどやわらかくウェットになっています。
そこまでデリケートな耳の奥まで、耳かき棒を突っ込むのは、それなりの痛みも生じるのですが、ここは我慢のしどころ。
その痛みをグッとこらえて、耳壁に耳かき棒の先端をゆっくりとおしつけ、デリケートな部分の痛みをこらえながら、耳かきで耳垢を手前にすくいだします。
耳垢が衝撃に崩れずに、より原型に近い姿のまま、ジョりジョリと手前に手繰り寄せられたら、この勝負は僕の勝ち。
もしもだめだったら、またこの次に耳の中に耳垢がたまるまで勝負はお預け。
そして、そのバトルで特大の耳垢をゲットすると、今なら写メでもしてしまいそうですが、当時の僕は、マッチ箱の中に保存して、自慢げに友人たちに見せていた記憶があります。
同じ理由で、かさぶたもとってありましたね。
さすがに今は、耳かきをしても、実に機械的な作業で、爪切り同様、ササっとやって、パパッと終わらせる淡白なものになってしまったが、やはり大人になるとあんな大物の耳垢は耳の中に出来にくくなるものなのか。
以後の人生で、あの小学校4年生以来、あの大きさの耳垢はゲットで来ていません。
さて、長々と耳かきの話に付き合っていただきましたが、ここでスギナの話になります。
前回のブログでも、会社の畑作業の中で、スギナ退治が大変な作業だという話はさせていただきましたが、実はこのスギナ退治。
実にあの、耳かきとよく似ているんですよ。
何を馬鹿なことをいっているたんだと思われるでしょうが、このスギナを退治するには、あの耳垢の大物狙いの基本が実に共通してスキルになるという話をしたいわけです。
スギナはとても生命力強い植物です。
植えてもいないのに、どこからともなく飛んできて、こちらが丹精こめた植えた野菜の苗床のまわりに、根付きます。
この根付き方が尋常ではありません。
地面にニョキッと顔を出している姿の、およそ10倍くらいの長さが、根っことして、地中深くに延びています。
そして、この根がただものではない。
途中で、ちぎってしまうと、その先から、あっという間に、新しいスギナが伸びてきます。
ですから、スギナをやっつけようと思うなら、上っ面をちぎっただけではダメ。
スギナの芽が見えたら、その手前から、グサリと深く剣先スコップをさし、土を掘り起こして根っこを引っ張り出し、途中でちぎらないように、根元からすっと引き抜く。
これです。
この掘り起こして、根の終点までスコップを突き刺す感じが、あの耳垢を原型のまま、ほじくりだす感覚と酷似しているんですよ。
そして、耳垢同様、途中で破壊することなく、スギナを根ごとゴッソリ引き抜けたときの快感。
スギナをスッと根ごとゴソッと引き抜けたとき、、なんかわけのわからない声が出ている自分に気がつきます。
畑の師匠や先輩は、このスギナには、去年はずいぶん苦労させられたと聞いています。
「とにかくキリがないから、今年は、野菜には影響しないように除草剤巻くか。」
と、深刻な顔をして相談しています。
もちろん、僕のような農業初心者に、「スギナ抜き好きなんですよ」なんてのん気なことを言えば、鼻で笑われてしまうかもしれません。
除草剤をまくとなれば、もちろん「やめて」とは到底言えた身分ではありませんが、出来れは農薬を使わない有機栽培を体感したいという思いはありますので、僕は僕で、飛び道具を使わない、スギナとのガチ勝負を続けていきたいなと、実は密かに思っています。
おいしい野菜を育てるために、スギナを抜く。
芽が出てきたら、上等。ひとつひとつの芽に、スコップをグッサリと差して、引き抜く。
引き抜いたソバから、また伸びてきたら、またスコップを持っていって引き抜く。
これは、根競べの戦いです。
人間だって、スギナと同じ生き物です。
やつらが、どんどん増えて、畑の野菜の栄養分を吸い取って増殖するのが勝つか、百姓がそうさせてなるものかと、生えてくるソバから抜き取って退治し、最終的においしい野菜を収穫するか。
この戦の土俵には、ちゃんと立って堂々と戦っていいと思いますね。
といいますか、昔々の畑仕事は、まさにその連続だったはずです。
最近は、人間も智恵をつけて、一網打尽にする除草剤などを開発したりしてしまいましたが、やはりそれを使うのはどこか、反則だろうという気がしてしまうのは、農業一年生の、甘さかもしれません。
さて、そのスギナ。
前回の「震災の爪跡」でもチラリと触れましたが、福島県の堤防の復旧工事中の周辺の、津波がさらっていった一面の更地には、どこからか飛んできて、台地にしっかり根付いているたくましい姿をいたるところで目撃しました。
少なくとも、わが社の畑では天敵のスギナでも、そんな場所で見つけてしまうと、なぜか不思議と「よしがんばれ」という気になってしまいます。
そういえば、最近はゆっくりと耳かきもしていません。
久しぶりに、大物を狙ってみますか。
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