この本は、「奇跡のリンゴ」の木村秋則さんの本を読んでいて知りました。
木村さんが、彼なりの自然農法で、リンゴの木を再生させる過程で、何度も熟読したという本です。
この本の初版が発行されたのは、1983年5月。
もう今から、35年も前の本です。
しかし、その内容は、まったく古びていません。
まずこれに驚きました。
農業のことのみにとどまらず、自然論、哲学、環境論、原発、農業行政、食事論など、本書の内容は多岐に及んでいますが、その内容の全てが、僕が最近読んだいろいろな本からの知見をすでに先取りしています。
いったいこの人は何者なのか。
著者の福岡正信氏は、1913年生まれ。といいますから、大正2年ですね。
そして、すでにこの世にはいません。
2008年に逝去されています。
元々は、横浜の税関で、輸入される農作物や植物の検疫を担当されていた方です。
その後、生まれ故郷の四国高知県の農業試験場勤務を経て、帰農。
以来、自然農法による農業を実践し続けてきた方です。
「自然農法は、永遠に未完成の道。自然は、人知・人為で探し出せるものでも、創れるものでもない。」
福岡氏の自然に対する姿勢は、極めて真摯。
そして、福岡氏は、自然に対する、今の(当時の?)人間たちの驕りを、徹底的に糾弾します。
自然を観察研究することで進化してきた科学であるはずなのに、その真理の一部分をのぞいただけのことで、さも天下を取ったような気になり、挙げ句の果てに、その中途半端なままの科学の力で自然をコントロールしようとする。
その高慢な姿勢にもノーをつきつけます。
「人智はどこまでも、天の配剤に及ばない。」
著者はそう言い切ります。
人間が自然に対してすることは、余計なことだらけ。
しかし自然が自ら行うことには、一切の無駄がない。
三年前から、僕は会社の畑を使わせてもらって、野菜作りをしています。
その経験からも、これは自分の肌で実感できます。
畑で収穫された野菜は、僕たちの胃袋に収まり、血や肉になる。骨にもなります。
収穫されなかった野菜も、畑に残しておけば、それはやがては枯れて土に戻ります。
そして、畑に残った枯れ草は、そこで燃やせば、灰汁となって、畑の養分になります。
つまり、畑から出たものは、すべて畑に帰り、循環して行く。
これが自然の配剤でしょう。
先週の日曜日も畑へ行って、苗植えの準備で畑を綺麗にしてきましたが、畑に残してはいけないものは、すべて人間様の都合で畑に入れたもの。
それは、マルチのビニールであり、支柱であり、ネットであり、誘引用のクリップであり、ラミネートの看板などなど。
畑にとって、不要なゴミとされるものは、考えてみれば、すべて人間様の都合で畑に投入したものばかりでした。
実は畑は、そんなものは必要としていないというわけです。
そんなもの投入せずとも、放っておきさえすれば、畑の自然は、すべて自分たちの力で何とかしようとするもの。
ならばその力を、こちらは最大限に利用させてもらい、余計なことは、極限まで削ろうというのが、福岡氏の実践する自然農法です。
福岡氏の推奨する自然農法では、農薬は撒かない、肥料はやらない、除草はしない、マルチは張らないのナイナイづくし。
タネを蒔いたら、後は藁をふるだけ。
後は基本放置プレイ。
この藁が、畑の中で保水効果を生み、堆肥の代わりになり、農薬の代わりになり、土を育ててゆく。
それが「わら一本の革命」です。
これで、人間がこれまで、ご自慢の「科学」を持ち込んで、増産させてきたどの農作物よりも、よりたくましい農作物が出来るというのですから痛快です。
つまり、農業において、本来人間のするべきことは、自分の力でたくましく成長してゆけるはずの農作物たちをしっかりと見つめて、必要最低限の的確なサポートをするだけでいいということ。
人間様の都合による余計なことは一切しなくてよろしい。
著者はこう言い切ります。
要するに、いつのまにか鼻高々になった人間は、自らの能力を過信し、神にでもなったつもりで、自然に対して余計な口出しをする。
そして、結局そのために、余計な問題を引き起こして、自らの首を締めることになる。
核の問題しかり。農薬の問題しかり。食料の問題しかり。
著者はこう言います。
「火食、塩味つけ、万端ひかえめにして腹八分、手近な所で得られる四季おりおりの旬のものをとればすでに十分。一物全体、身土不二、小域粗食に徹す ること。広域過食が世を誤らせ、人を病ませる。」
有史以前、人の暮らしの営みの基本は自給自足でした。
誰もが、自分の身近にある旬のものを慎ましく食べていれば、それこそが一番自然に近い形。
そこに一切の無駄はありません。
何も無理をして、わざわざ海の向こうから食べ物を買ってくる必要なんてない。
そんなことをしなくても、食べ物はいつでも自分たちの足元にちゃんとある。
答えは簡単です。
日本人全員が、自分たちの食べるもののために、一反の土地を耕すことをすれば、日本の食料自給問題なんてたちどころに解決してしまう。
著者はそう言います。
狭い日本にだって、まだそれくらいの土地なら、ちゃんとある。
なのに、都市に住む人はそこに胡座をかいて、田舎にある美味しいものを、石油の力を使って自分たちの胃袋まで運んで来させる。
自力では美味しいものなど何一つできない都市空間を作り、経済の論理にものを言わせて、グルメにうつつを抜かす。
そして、その不自然さを疑おうともしない。
著者は、大真面目でこう言います。
「自然をないがしろにして、科学の力を信奉する人間は、やがて自分たちの作ったもので滅びる。」
これは、この本が書かれてから35年以上たった今になって、さらに重みを増した現実として、僕たちに迫ってきます。
さあ、これからいよいよ、我が畑でも今シーズンの野菜作りが始まります。
身土不二。
環境と人間は、表裏一体。
というよりは、本来一緒のもの。
環境という言葉で、人間と自然を分けて考えようとするから、そもそもおかしな話になるわけです。
野菜畑に実る野菜は自分自身と考えれば分かりやすいかもしれません。
考えてみればそうです。
それを食べれば、その野菜たちは、たちまち体の中で消化されて、紛れもなく自分自身になるわけです。
これから収穫される野菜たちをできる限り無駄なく、ありがたく食べて入れば、それが自然にとって最も理想的なスタイル。
人間は、特別なものでもなんでもなく、もともと自然に組み込まれているもの。
そこに、余計なものを加えなければ、すべては無駄なく循環するというわけです。
この本は、定年退職後にもう一度読み返すことにします。
定年後は全てをリセットしてセカンドキャリアのスタート、自然に頭を垂れて、お百姓を目指そうという僕にとっては、これ以上ない日々の暮らしの支えとなるバイブルになりそうです。
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