ブータンに向かう飛行機の中で、iPad に仕込んである読書リストの中に、ちょうどこの本があったので開いてみました。
仏教の国に行くのなら、仏教のお勉強というわけです。
スリランカ上座仏教の長老アルボムッレ・スマナサーラ氏と、ご存知「バカの壁」の養老孟司氏の対談本。
聞き手が、釈徹宗。
聞き手とは言っても、この釈氏が、2人に負けないくらいに語ってしまっているのがご愛嬌でしたが、
仏教の切り口が大変面白かったので、楽しめました。
ちなみに、少年時代は、僕はかなり熱心な創価学会員でした。
ちゃんと、勤行もできましたから。
創価学会といえば、今は喧嘩別れしているとはいえ、元々は日蓮正宗。
その少年時代に勉強したことは、今でも覚えています。
釈迦が生きた時代は、正法時代。
それから、像法時代になって、末法の世に日蓮聖人が登場。
その彼が、釈迦の教えを、一閻浮提に広宣流布していく。
とまあ教わったのは、そんな話でしたが、僕が少年時代に創価学会の中で経験した仏教ワールドと、今回のブータン旅行で見た仏教ワールドは、同じ仏教でも、まったく違うものでしたね。
もちろん、ブータンに根づいているのは、日蓮宗ではなくチベット仏教。
仏教の流派でいえば、ドゥク・カギュ派。
このカギュ派の開祖がツァンパ・ギャレーという高僧。
ちょうど、日蓮聖人の少し前の方なので、この派閥では、この方が末法の救世主ということになるのでしょうか。
ツアー中にガイドさんの口からよく出てきたのが、チベットの高僧ダントン・ギャルポ。
15世紀くらいの人で、ブータンのあちらこちらで、たくさんの仏教施設を作った偉いお坊さん。
彼の建設したものは、まだほとんどそのままの姿で現存していて、現在にまで引き継がれているものが多く、ブータンでは、新築するにも、その様式を守れと言う法律があって、日本のように、鉄筋コンクリートのビルディングに姿を変えている建物は一切ありません。
日本とブータン、どちらの仏教の派閥が、正当なブッディズムの継承者なのか。
そのあたりには正直あまり興味はないのですが、今回ブータンに旅行して、はっきりとこの目で確かめて来たことは、仏教が国民文化にしっかりと根づいているその様ですね。
仕事の行き帰りに、メモリアル・チョルテンでお祈りをしてるティンプーの人たち。
みんなの朝食を作りながら、曼荼羅の真言を口ずさんでいるお母さん。
寺の中に入れば、必ず手を合わせ、床に額をつけてお祈りをしてから、説明を始めるするガイドたち。
宗教が、完全に暮らしの一部に同化していました。
世界の先進国と言われる国のほとんどは、政教分離が建前です。
その先進国ばかりでなく、世界中のほとんどの国は、それなりの経済発展を遂げ、少なくともブータンの国民よりは、金銭的には豊かな暮らしを送っています。
しかし、そんな国たちの様子をしっかりと見据えながら、この政教が見事に一つになった国の王様は、自信たっぷりにこう言います。
「私たちの国は、急激な経済発展は望みません。私たちは小さな国ですが、この国の伝統と暮らしを愛しています。私たちは、私たちの幸福を見据えながら、ゆっくりと成長していきます。」
そして、この国の王様が世界で初めて言った「国民総幸福量」は、きちんとこの国の憲法にまで刻まれています。
つまりブータンでは、国民が不幸になることは憲法違反ということ。
あくまで、世界に足並みを揃えず、確信犯的にゴーイング・マイウェイなのです。
宗教や政治について不勉強なものが、ことの良し悪しを偉そうに語るつもりはサラサラありません。
どちらの国に住むのが人として幸せか。
たぶん、僕のように俗世にまみれた凡夫が、寝ないで考えても、そう簡単に答えは出ないでしょう。
ただ事実だけを申せば、ブータンの国民の97%が、この国に生まれて幸せだといっていること。
日本で、もし本気で国民総幸福量を算出したらいったいどんな結果が出るのか。
ブータンで、お世話になった民家のお母さんに、「日本では年間に3万人の人が自殺している」といったら、目が白黒していました。
だいぶ読書感想からは脱線していますが、本書でスマナサーラ氏がこう言っています。
「成長とは生存欲(存在欲)、恐怖感、怒り、嫉妬などの感情を抑えて、それらの感情に支配されないようにすること。脳の働きで説明するならば、原始脳に支配権・管理権を与えないこと。理性ですべてをつかさどること。」
つまり、本能をコントロールする力を身につけることが、仏教の修行。
スマナサーラ氏はそう言います。
そして、そのはるか先の先に、ブッダのたどり着いた「悟り」があるというわけです。
本能をコントロールできない治世者が政治を行うと世界の歴史は、どういうことになってきたか。
都会に住む者の暮らしの便利さと引き換えに、人々は何を失っていくのか。
このヒマラヤの小国ブータンの人たちは、それを確実に知っています。
パソコンのクリックひとつで、購入したものが、翌日には我が家に届く。
我々にとっては今や当たり前になっているこの利便性が、どれだけ歪で不自然なものであるのか。
そのひとつの小さな「幸福」の後ろに、どれだけの「不幸」が詰まっているのか。
おそらく、彼らは本能的に、それを知っています。
だから彼らは、彼らのブッディズムに則って、「ゆっくり、ゆっくり、あせらずに」暮らしている。
それで、なんの問題もないと言っている。
貧乏上等。
誰かの不幸の上に成り立つ「幸福」など、あり得ない。
家族がみんな笑顔なら、それが一番の幸福だと、彼らは知っている。
ブータンは、貧しい国ではあるけれど、決して不幸な国ではない。
さて、どちらの国の治世者が、より理性的なのか。
より賢いのか。
あれ、待てよ。
ここまで書いてきて、ふと思い出しました。
子供の頃に、教わった「広宣流布」というのは、こういう状態のことを言うんじゃないの?
スマナサーラ氏はこうも言っていました。
「本能のままで生きていると、生命にはなんの成長もない。」
これは、グサリと突き刺さりました。
これって、日蓮大聖人の御書には、書いてあったっけ?
最後に、我が国の総理大臣に一言。
「でも、権力欲ってやつも、かなりやっかいな本能ではないですか?
ちゃんと、アンダー・コントロール出来てますか? 安倍さん。」
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