この本を最初に読んだのは、1983年です。
当時のベストセラーでした。
大学を出てから務めた会社が倒産して、モラトリアムしていた頃でした。
実家が書店でしたので、家でゴロゴロしているのがバツが悪いこともあり、形だけ手伝っていた頃です。
もちろん、友人達と遊び回るお金などもなく、かといってすぐに仕事を探す気にもなれなかったので、何をしたかといえば、ひたすら読書をしていましたね。
もちろん、買ったりはしません。読んだのは、全てお店の商品。
これならお金はかかりません。
とにかく汚さないように読んで、読み終わったらまた店に並べていました。
ミステリーが好きだったのですが、不思議なもので、どこかに後ろめたさもあったのでしょう、自分の趣味のジャンルには走らずに、興味があろうとなかろうと、ベストセラーになっている本なら、片っぱしから読んでいましたね。
読書をすることで、世の中と繋がっていようという魂胆だったと思われます。
そんな流れで、当時手にしたこの一冊。
理科系にまるで弱い自分としては、相当な気合が必要でしたが、メモ帳を脇に置いて(本に書き込みはできないので)読んだ記憶があります。
これは、その当時の本を、最近「ブックオフ」で発見して、購入してあったもの。
前所有者の、マーカーなどが残っている本でした。
というわけで、この本は発売当時の大ベストセラー。
1983年といえば、昭和58年のこと。
今から38年も前です。
今日人類が依存している化石エネルギーはやがて枯渇する。
文明の進歩は、どの分野においても、エントロピーを増大させるスピードを加速させながら進んでいる。
人類は、自然に対する「侵略」にストップをかけ、自然の秩序に順応していく必要がある。
改めて読み直しましたが、この骨子は、現在においてもいささかのブレもなく通用するものでした。
時間が逆行することがないのと同じく、エントロピーの増大が逆行する例外はない。
そう言われてしまうと、理科系オンチのくせに、じゃあ生物はどうなの。
生まれて、次第に育っていく過程は、エントロピーの増大に反するじゃないの。
そんなふうにも考えてしまいますが、そんな抵抗は、いとも軽くあしらわれてしまいます。
エントロピーの法則とは、秩序化されたものは、無秩序化されたものへと変化する方向でしか時間が進行しないということ。
生物が成長していく過程は、一見秩序化していくよう見えますが、その系を広げてみれば、そこで得られる秩序よりも遥かに大きい無秩序を、環境に対して放出しながら、生命活動は成立している。
まさに人類は、地球という閉ざされた系で考えるなら、最も重大で悪質な、エントロピー増大マシーンということになるわけです。
どんなに、足掻いたところで、人間にできることは、エネルギーをある状態から別の状態に変えることでしかない。
エネルギーを作り出せるなんて、思い上がりも甚だしいというわけです。
エントロピーの法則は、有り体に言えば、熱力学の法則です。
その理屈は頭では理解できるくせに、それを人間社会に置き換えてしまうと、途端に見苦しい言い訳ばかり。
目の前の刹那的な安定と幸福を捨てきれずに、エネルギー大量消費社会から、低エントロピー社会へといまだに舵を切れない先進国のリーダー達。
この構図は、38年たった今でも、基本的に何も変わっていません。
本書では、この低エントロピー社会を生きるための精神的な支柱として、仏教や儒教、特に老荘思想に根ざした東洋の宗教に、大きなリスペクトが寄せられていました。
「なんの根拠もなく、エネルギーは無限にあると思い込んでいるアメリカ社会は、日本を見習うべき。」
著者のリフキンは、この本が書かれた時には、まだそう言ってくれていました。
さて、これは果たして今でもそうなのか。
その東洋の雄中国は、今ではアメリカに次ぐ世界第二位の大量エネルギー消費国になっています。
我が国も、身の程を知らずに、軍備においても、エネルギー政策においても、アメリカに忖度して、あわよくば肩を並べようと必死になっている有り様。
再生可能エネルギー政策においても、世界のトレンドからは、もはや周回遅れになっているような状態では、到底、低エントロピー社会の模範になれるような精神的基盤を持った国民ではありません。
政治経済の著しい劣化は、もはやエントロピーの法則そのもの。
まあ、一百姓がお国にたらたら文句を言っても始まりません。
せいぜい、太陽エネルギーの恵みをたっぷり受けた低エントロピーの野菜(つまり地産地消ということ)をセッセと作って、地元の皆さんに食べてもらうだけです。
最後に一つだけ。
「愛情」にも、エントロピーの法則は働きますか?
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