柳田國男の「遠野物語」を読んでいるうちに、頭の片隅で、チラチラと浮かんでいた人物がいました。
その人物とは、井上円了という、明治時代の哲学者。
この人何を隠そう、我が母校東洋大学の創始者ですね。
その節は、大変お世話になりました。(なにせ、5年も通わせていただきましたので)
しかし在学時代から、本日に至るまで、恥ずかしながらこの井上翁の著作に触れたことはありませんでした。申し訳ない。
しかしこの方が「妖怪博士」と言われていたことだけは、承知していました。
「なるほど。井上円了は、哲学者でありながら、なかなか粋な研究をしていたもんだ。」
どこかで、そんな思いだけは持っていました。
本作が執筆されたのは大正3年。西暦で言えば1914年。
ちょうどヨーロッパで、第一次世界大戦が始まった頃です。
「おばけの正体」とはまるで児童文学のタイトルのようですが、実は彼の妖怪研究の集大成とも言えるべき一冊が本作です。
「妖怪学」というからには、「ゲゲゲの鬼太郎」でお馴染みの妖怪たちが、図鑑のようにズラリと並べられた解説本だとばかり思っていましたが、本作はさにあらず。
著者は、日本全国から収集した、妖怪の仕業と思われる超常現象の記事や情報が、実際はそうではない単なる見間違いや勘違い、フェイクの産物であるということを、その当時の科学的知見を総動員して、片っ端から論破していきます。
これがなかなか痛快。
一項ずつは短いのですが、まずは思わせぶりなタイトルで引きつけておいて、軽くその正体を明かし、身も蓋もない結論をサラリと提示しては、最後に皮肉をチクリ。
とことん、妖怪やそれにまつわる迷信を打破しまくっていく、ちょっとした「ゴースト・バスター」的語り口です。
妖怪に対しては、あくまで民俗学的見地から接した「遠野物語」での柳田國男のアプローチとは、全く正反対のものでしたね。
著者は、妖怪をいくつかに分類します。
まず「仮怪」。
これは、妖怪変化ではないけれど、実際に発生する自然現象。
本書の中で登場してきたのは、蜃気楼や、燐光現象や、不知火などなど。
次に、「誤怪」。
これは読んで字の如く、恐怖心などからくる人間の錯覚や誤解などの心理的要因から発生するもの。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」的な諸々ですね。
そして、「偽怪」。
これは、人間の確信犯。つまり人為的妖怪です。
コックリさんなどは、その一例でしょう。
最後に、「真怪」。
これは、当時の井上円了にも説明できなかった真の超常現象。
妖怪学を深めることで、実は人知では測れない現象もまだ世の中には実際にあるということを、井上は知ることにもなるわけです。
これらを学問的に追求していくためには、当然のことながら、自然科学、医学、心理学、社会学などの広範囲にわたる知見が不可欠で、妖怪学を極めることは、詰まるところ人類の科学の発展に大いに寄与するものだと、結果、井上円了は胸を張ることとなります。
実はこの井上円了という人は、教育者としても立派な方でした。
早稲田や慶応といった有名私学は、当時は実学志向。
世の中に出て、即役に立つ学問優先でしたが、井上円了が創立した、我が大学の前身は哲学館。
哲学は、当時から実学とは程遠い煮ても焼いても食えない学問でした。
しかし、こういう学問こそ、貧富の差なく、学習できる環境が必要であることを説き、通信教育なども、日本で最初に始めたのがこの方です。
僕が当時、東洋大学を志望した理由のひとつがその学費の異常な安さでした。
偏差値がどうのこうのは関係なく、この理由ゆえに、両親からは、手放しで合格を喜ばれたことを思い出します。
「妖怪博士」井上円了先生には、改めて敬意を評します。
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